WATANABE_tomo / 渡辺知明
かつて拙著『表現よみとは何か』(1995)でミハイル・バフチンの理論をヒントに朗読における対話構造を論じた。文の各部には常にダレかがダレかに呼びかけて応える構造がある。それをとらえて読み分けるという論であった。今は『朗読の教科書』で、そのための作業法として記号づけを示している。 at 05/14 12:06
かつて拙著『表現よみとは何か』(1995)でミハイル・バフチンの理論をヒントに朗読における対話構造を論じた。文の各部には常にダレかがダレかに呼びかけて応える構造がある。それをとらえて読み分けるという論であった。今は『朗読の教科書』で、そのための作業法として記号づけを示している。 at 05/14 12:06
WATANABE_tomo / 渡辺知明
「自由に朗読しなさい」という課題ではなく、ある種のカセを与えて、「これをこんなふうに読みなさい」とする。それによって、無自覚に読んできた朗読の方法が問われることになる。それにどう対処するかという努力が、読み手を成長させる。これは朗読ばかりではなく、指導や教育の基本に通じるものだ。 at 05/14 11:55
「自由に朗読しなさい」という課題ではなく、ある種のカセを与えて、「これをこんなふうに読みなさい」とする。それによって、無自覚に読んできた朗読の方法が問われることになる。それにどう対処するかという努力が、読み手を成長させる。これは朗読ばかりではなく、指導や教育の基本に通じるものだ。 at 05/14 11:55
WATANABE_tomo / 渡辺知明
拙著『表現よみとは何か』(1995明治図書)でミハイル・バフチンの理論をヒントに、朗読における対話構造を論じた。文の各部には常にダレかがダレかに呼びかけて応える構造がある。それをとらえて読み分けるという論であった。今は読み分けの具体的な作業方法として記号づけという方法がある訳だ。 at 05/14 11:46
拙著『表現よみとは何か』(1995明治図書)でミハイル・バフチンの理論をヒントに、朗読における対話構造を論じた。文の各部には常にダレかがダレかに呼びかけて応える構造がある。それをとらえて読み分けるという論であった。今は読み分けの具体的な作業方法として記号づけという方法がある訳だ。 at 05/14 11:46
WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読にとって文学作品の理解と解釈とは必要不可欠な要素だ。理解と解釈との間には大きな距離がある。まずぎりぎりまで文そのものを読みこんで理解せねばならぬ。解釈は次の段階だ。だがあまりに早く解釈に飛躍して作品が論ぜられる傾向がある。単語で意味を拾うのでない1文ごとの正確な理解が基礎だ。 at 05/14 10:35
朗読にとって文学作品の理解と解釈とは必要不可欠な要素だ。理解と解釈との間には大きな距離がある。まずぎりぎりまで文そのものを読みこんで理解せねばならぬ。解釈は次の段階だ。だがあまりに早く解釈に飛躍して作品が論ぜられる傾向がある。単語で意味を拾うのでない1文ごとの正確な理解が基礎だ。 at 05/14 10:35
WATANABE_tomo / 渡辺知明
拙著『朗読の教科書』は上手な朗読の仕方が書かれているのではありません。声に出して本の内容を理解しながら読める能力を身につけるための方法が、その訓練方法とともに書かれているのです。どうしたら本の内容がたっぷり味わえるか。どうしたら声に出しながら内容を理解できるか。関心ありませんか。 at 05/14 10:24
拙著『朗読の教科書』は上手な朗読の仕方が書かれているのではありません。声に出して本の内容を理解しながら読める能力を身につけるための方法が、その訓練方法とともに書かれているのです。どうしたら本の内容がたっぷり味わえるか。どうしたら声に出しながら内容を理解できるか。関心ありませんか。 at 05/14 10:24
WATANABE_tomo / 渡辺知明
拙著『朗読の教科書』は344頁もあります。「重くて持ち歩くのが大変だ」と苦情が出ます。でも、発声・発音からアクセント・イントネーションの音声理論の本、文法入門の本、文学作品の文体論の本と3冊分なのですから我慢してお持ちください。ほかに文庫本が1冊あれば朗読の勉強には十分なのです。 at 05/14 10:20
拙著『朗読の教科書』は344頁もあります。「重くて持ち歩くのが大変だ」と苦情が出ます。でも、発声・発音からアクセント・イントネーションの音声理論の本、文法入門の本、文学作品の文体論の本と3冊分なのですから我慢してお持ちください。ほかに文庫本が1冊あれば朗読の勉強には十分なのです。 at 05/14 10:20
WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読はだれでもできる。勉強なんかしなくても読めると思うかもしれない。それなりに読める。だが、そもそも文章が読めているかどうかが問題だ。学校教育では、文を黙読して抽象的に意味を読み取って声に乗せることは学んでいる。だが、声に出して読みながら意味を生み出すという訓練はしたことがない。 at 05/14 10:02
朗読はだれでもできる。勉強なんかしなくても読めると思うかもしれない。それなりに読める。だが、そもそも文章が読めているかどうかが問題だ。学校教育では、文を黙読して抽象的に意味を読み取って声に乗せることは学んでいる。だが、声に出して読みながら意味を生み出すという訓練はしたことがない。 at 05/14 10:02
WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の理想は、見せられた文学作品をその場でいきなり表現して見事に読めることだ。そのための基礎が必要だ。文字の読みから始まって、文の切れ目が見え、意味のつながりが分かり、文と文との論理関係が見通せることだ。その能力をつける有効な修行が記号づけである。あらゆる文を読むための訓練だ。 at 05/14 09:46
朗読の理想は、見せられた文学作品をその場でいきなり表現して見事に読めることだ。そのための基礎が必要だ。文字の読みから始まって、文の切れ目が見え、意味のつながりが分かり、文と文との論理関係が見通せることだ。その能力をつける有効な修行が記号づけである。あらゆる文を読むための訓練だ。 at 05/14 09:46
WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の表現能力の基礎とは、様ざまな技術を目的に応じて使いこなせることだ。アクセントについて言うなら、辞典通りのアクセントで読めるかどうかではない。そんなものは調べたらわかる。重要なのは技術の自由さだ。例えば、「こころ」の3つの音節のいずれにでもアクセントをつけて読めるかどうかだ。 at 05/14 09:03
朗読の表現能力の基礎とは、様ざまな技術を目的に応じて使いこなせることだ。アクセントについて言うなら、辞典通りのアクセントで読めるかどうかではない。そんなものは調べたらわかる。重要なのは技術の自由さだ。例えば、「こころ」の3つの音節のいずれにでもアクセントをつけて読めるかどうかだ。 at 05/14 09:03
WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読を聴くというとき、聞き手は作品を聴くのか、読み手の表現を聴くのか。入り口は読み手の声やキャラクターなのだろう。だが、いつの間にか、読み手がその人でなくなり、別世界のできごとを語っているように聞こえてきたらしめたものだ。読み手はもちろん聞き手も作品の世界にはいっている証拠だ。 at 05/14 00:12
朗読を聴くというとき、聞き手は作品を聴くのか、読み手の表現を聴くのか。入り口は読み手の声やキャラクターなのだろう。だが、いつの間にか、読み手がその人でなくなり、別世界のできごとを語っているように聞こえてきたらしめたものだ。読み手はもちろん聞き手も作品の世界にはいっている証拠だ。 at 05/14 00:12