2012年06月05日

2012年06月04日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
心に傷を受けたことが動機で声優に憧れたという若者の話を聞いた。漫画『花もて語れ』の主人公もそうだった。では、朗読にはどのような効果が期待できるのか。「はいる→なりきる→のりうつる」というカタルシスの効果だろう。心と体と声との一体化した読みこそ、心身のリフレッシュにつながるはずだ。 at 06/04 21:40

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読においてアクセントは文のつながりと流れに応じて次つぎに変化しながら動いていくものだ。だから、単語単位で調べたアクセントは文中に入ると生きて働かないのだ。生きたアクセントとは、文の流れでイントネーションにかわり、ときにはプロミネンスを生みだす。それが『朗読の教科書』の原理だ。 at 06/04 11:40

WATANABE_tomo / 渡辺知明
果たして知識の伝達というものはあるか。言葉で発した情報が受け手にどう受け止められるか。個別の意識内容は確認のしようがない。仕事ならば、命じた行為が実行されることだ。朗読ではどうか、自らの読みの過程そのものが作品の理解になるのだ。だから読み聞かせよりも聞き手と共に読む意義は大きい。 at 06/04 11:33

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読で台本を手に持つ場合、文字を読みすすむ自分の意識を記述することはできる。そこから、文を読むことの意味、作品を声で創造することの基本が捉えられる。だが「語り」として暗記した文章を読みあげる人の意識はどうなのか知りたい。メルロ=ポンティならばきっと詳しく記述してくれることだろう。 at 06/04 11:30

WATANABE_tomo / 渡辺知明
プチ・プラージュで『朗読の教科書』の第1回講習会を開催する。姿勢、発声・発音、アクセント、イントネーション、プロミネンスの基礎から、文学作品の文章の特徴を生かした表現法の実習をする予定だ。だが何よりも参加者の希望に応じた実践的指導をしたい。http://t.co/8rSoGehC at 06/04 10:58

WATANABE_tomo / 渡辺知明
拙著『朗読の教科書』は、「話し・聞き、読み・書き」というすべてのコトバ能力を高めるためのコトバ理論に基づく著述だ。だから、文法入門もあるし、文の組み立て方を分析する記号づけという技術についても書かれている。だが、朗読というアプローチから音声言語能力を高めることが最大目標だった。 at 06/04 10:56

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読は「同じ阿呆なら踊らにゃそんそん」です。というより、理解というものは外から注入される観念ではなく、自ら作品を声に出して読むことによって生じるものです。ただし、その基本となる教育が必要です。野口三千三『原初生命体としての人間』には、教育論から朗読論、人生論まで書かれています。 at 06/04 10:48

WATANABE_tomo / 渡辺知明
学校での朝の読書はいまだ黙読で行われているようだ。音読で朗読の練習になる方法がある。発音をよくしてなおかつ理解を深める方法だ。名付けて「ノド切り音読」である。口元を引きしめて笑窪の口をして両脇の歯をしっかり噛み締めてノドの奥で読むのだ。大きな声は出ないからクラス全員が音読できる。 at 06/04 09:04

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読で発音の明瞭さは「滑舌」「歯切れ」と言われる。しかし、個々の音(オン)の発音を良くするのはノドなのである。しっかり口を閉じて両脇の歯を噛み締めて笑窪が出るように口もとを引きよせる。その状態のノドで一音ずつアイウエオと発音するのだ。この練習をあえて言うなら「ノド切れ」といえる。 at 06/04 08:59

WATANABE_tomo / 渡辺知明
6月3日(土)独演会の演目、太宰治作品「富嶽百景」「猿ケ島」「吉野山」と3つ並べると共通の話題に「山」がある。直感的に選んだ演目に共通性があるのがおもしろい。更にゲスト・馬場精子さんの朗読した「きりぎりす」と「富嶽百景」の見合い場面がつながる。「猿ケ島」と「吉野山」も対比できる。 at 06/04 08:17
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2012年06月04日

2012年06月03日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
さっと作品の文字づらを黙読して、いったいどれだけのことがわかったというのか。また、黙読したあとで文字づらを見直し、語句を拾いだして文学作品を解釈して、どれだけ作品の内容に迫れたのか。朗読の意義は、からだとこころとが声という場において一体化して作品を気持ちよく味わう過程にあるのだ。 at 06/03 09:28

WATANABE_tomo / 渡辺知明
(1)文字を読む、(2)文を読む、(3)文章を読む、(4)文学作品を読む。読みのレベルは様ざまだ。「読み」の理論化は、まず、これらのレベルの違いから始まる。朗読の理論では、文学作品を読むという最高度のレベルから降りてきて、文字の読みまで反省しなければならないのでたいへんなのだ。 at 06/03 09:25

WATANABE_tomo / 渡辺知明
人の関心はどんどん変わるものだ。今わたしが関心ある作家はカレル・チャペック、哲学者はメルロ=ポンティ、野口三千三、これらの思想家をゆるく取り囲んでまとめてくれるのが禅の鈴木大拙の考え方だ。夏目漱石にも禅がある。「青い鳥」の世界をたどって、「禅」の世界が見えてきたのかもしれない。 at 06/03 08:26

WATANABE_tomo / 渡辺知明
野口三千三の「野口体操」とメルロ=ポンティの哲学とが、ほとんど同じ内容のものに見えてきた。拙著『朗読の教科書』の基礎となるのは、この2人の思想なのである。朗読は単に文の読みというものではなく、からだとこころと声とことばとの一体化にその本質がある。だから命がけの朗読が人生論になる。 at 06/03 08:17

WATANABE_tomo / 渡辺知明
本日6月3日(日)午後、まだ席あります。第21回渡辺知明表現よみ独演会(JR山手線大崎駅前)太宰治特集「富嶽百景/猿ケ島/吉野山」とゲスト・馬場精子さん「きりぎりす」の4作品語り分け。上級の朗読表現はいかがですか(学割1000円もあります)http://t.co/3xOUg7xE at 06/03 08:14
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2012年06月03日

2012年06月02日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の本質は、文学作品の文章の複数の「語り口」を表現する点にある。ところが、読み手は構造が分からないので表現を自主規制してしまう。だから、強烈な演技者が単一化した「語り口」を持ち込んで演技すると、聞き手は驚かされてしまう。そのとき作品の文章は構造を失って演技者の台本になっている。 at 06/02 22:44

WATANABE_tomo / 渡辺知明
明日6月3日(日)東京は雨模様です。午後に第21回渡辺知明表現よみ独演会(JR山手線大崎駅前)太宰治特集「富嶽百景/猿ケ島/吉野山」とゲスト・馬場精子さん「きりぎりす」の4作品語り分け。上級の朗読表現はいかがですか(空席あり学割1000円)http://t.co/3xOUg7xE at 06/02 20:29

WATANABE_tomo / 渡辺知明
作品の文章が思想のかたちそのままなのだ。だから、「文学」という表現に意味がある。あらすじや要約が作品のそのものでないのは当然なのだから、書かれた文章をそのまま朗読して作品の表現になるために、どのような方法が有効なのか。コトバにおけるからだとこころと声との一体化が朗読の基本となる。 at 06/02 20:22

WATANABE_tomo / 渡辺知明
上級朗読長文課題01「或る午後、私がいつものようにぶらっと散歩のついでにちょっと立寄ったとでも云った風に節子の家を訪れると、門をはいったすぐ横の植込みの中に、労働者のかぶるような大きな麦稈帽むぎわらぼうをかぶった父が、片手に鋏はさみをもちながら、そこいらの木の手入れをしていた。」 at 06/02 20:15

WATANABE_tomo / 渡辺知明
曖昧にされた強弱アクセントを明確にするだけで話し方や朗読が変わる。発音というと「滑舌」や「歯切れ」が問題にされるが、その基礎は「ノド切れ」なのだ。ノドで1音1音が区切られていなければ、口から出る音(オン)は明確にならない。それには口構えから腰の沈み込みまで一体化した動きを要する。 at 06/02 10:13

WATANABE_tomo / 渡辺知明
テレビから教養番組がなくなった。その代わり大衆的なテレビドラマのなかに、葬儀の知識やマナーやモラルの教育が取り入れられている。それも1つの社会教育だろう。かつて落語には常識を教育する力があった。じつは文学こそ総合的な教養教育の手段なのである。だが今は文学作品の教養力が危ういのだ。 at 06/02 10:03

WATANABE_tomo / 渡辺知明
6月3日(日)午後(会場は東京JR山手線大崎駅前)第21回渡辺知明表現よみ独演会=太宰治特集「富嶽百景/猿ケ島/吉野山」とゲスト・馬場精子さん「きりぎりす」の朗読。4作品の語り分けによる上級の朗読表現をお聞き下さい(空席あり学割1000円)http://t.co/3xOUg7xE at 06/02 09:54

WATANABE_tomo / 渡辺知明
カレル・チャペック『流れ星』の翻訳は残念ながら失敗している。尼僧看護婦、千里眼、詩人の3者の語りの文体が訳し分けられていない。だから、朗読してみたいという意欲が湧いてこない。叙事的な文学においては「語り口」こそ重要なのだ。その点、太宰治「新釈諸国噺」のシリーズはすばらしいものだ。 at 06/02 09:42

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の上級課題は意味の明確化だ。「私はそれらの遠い山脈の姿をみんな暗記してしまう位、じっと目に力を入れて見入っているうちに、今まで自分の裡に潜んでいた、自然が自分のために極めておいてくれたものを今こそやっと見出したという確信を、だんだんはっきりと自分の意識に上らせ始めていた。」 at 06/02 09:05
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2012年06月02日

2012年06月01日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読を批評するとき、入口であって出口であるのが「語り口」だ。その文学作品(雑文は問題外)がどんな文体なのか、つまりどんな「語り手」によって表現されたことばなのか、それを抜きに作品は語れない。あらゆる文学作品をアナウンス原稿にしてしまったら文学作品が可哀そうだ。作者も可哀そうだ。 at 06/01 22:34

WATANABE_tomo / 渡辺知明
カレル・チャペック『ホルドゥバル』(飯島周訳1995成文社)がすばらしい。これぞ21世紀文学という文体だ。人物の内面の深さを内言の文体で表現している。その日本語訳が見事だ。アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは』とも共通する。ぜひ朗読で表現して音声化したいという気になる。 at 06/01 22:28

WATANABE_tomo / 渡辺知明
文学作品の文体の本質は、人物の独り言である「内言」の表現にある。漱石「こころ」が典型的だ。朗読においても、内言の表現力がなければ、文学作品の表現としての読みにはならない。それはアナウンスやナレーションの伝達の声だ。その声は内面化しない。情報伝達は文学の本質に欠けた音声なのである。 at 06/01 22:20

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の本質は伝達だと思いがちだが、それはアナウンスやナレーションのことだ。『朗読の教科書』では、最もむずかしい「語り口」は独り言なのだと考える。野口三千三も言う。「私にとって、「動きの本質は“内動”にある」のと同様に「ことばの本質は独り言(独白・内言)にある」ということになる。」 at 06/01 22:18

WATANABE_tomo / 渡辺知明
6月3日(日)14:30〜渡辺知明・表現よみ独演会第21回太宰治特集=ニューオータニイン東京(山手線大崎駅)「富嶽百景・猿ケ島・吉野山」「きりぎりす(ゲスト馬場精子)」太宰の「語り口」の読み分けは朗読から表現への通路だ(学割1000円)。http://t.co/3xOUg7xE at 06/01 22:01

WATANABE_tomo / 渡辺知明
6月3日(日)独演会を開催する渡辺知明の太宰治「新釈諸国噺」シリーズの聴けるページ「人魚の海」「義理」「赤い太鼓」「破産」「大力」「貧の意地」「吉野山」「裸川」。全12作の8作だ。ここにないのは「遊興戒」「女賊」と「猿塚」「粋人」である。http://t.co/kWxUTjDQ at 06/01 07:40

WATANABE_tomo / 渡辺知明
6月3日(日)渡辺知明の表現よみ独演会でゲストの読む太宰治「きりぎりす」は下記のサイトで4人の朗読が聴ける。お話しPodでは様ざまな読みが比較できる。朗読上達の一つの方法は同一作品の聴き比べをすることだ。どれがいいか評価をしてみることだ。
http://t.co/kWxUTjDQ
 at 06/01 00:15
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2012年06月01日

2012年05月31日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
6月3日(日)14:30〜渡辺知明・表現よみ独演会第21回太宰治特集=ニューオータニイン東京(山手線大崎駅)「富嶽百景・猿ケ島・吉野山」「きりぎりす(ゲスト馬場精子)」太宰の「語り口」の読み分けは朗読から表現への通路だ(学割1000円)。http://t.co/3xOUg7xE at 05/31 23:48

WATANABE_tomo / 渡辺知明
プチ・プラージュで『朗読の教科書』の第1回講習会を開催する。姿勢、発声・発音、アクセント、イントネーション、プロミネンスの基礎から、文学作品の文章の特徴を生かした表現法の実習をする予定だ。だが何よりも参加者の希望に応じた実践的指導をしたい。http://t.co/8rSoGehC at 05/31 18:22

WATANABE_tomo / 渡辺知明
理論というものには高度な理念から具体的な実践まで含まれている。朗読の理論に文学の概念を導入するには、実践の場で実用化できる方法の裏づけが必要だ。もっとも危うい概念がイメージである。イメージを声にするとか、イメージが声になるのではない。声そのものが、イメージを喚起する力を持つのだ。 at 05/31 09:06

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読は原則として文学作品を読むものだから当然、文学理論が必要だ。目的は明確である。文字で書かれた作品と声の表現との関係なのだ。作品の理解と解釈は声に表現されねばならない。2段階を取るわけではない。声が作品の理解と解釈の手段であると同時に表現となるような方法が追求されねばならない。 at 05/31 08:56

WATANABE_tomo / 渡辺知明
「演技力とは、あらゆるもの(心・からだ・せりふ)の微細な差異・ずれ・変化を的確に感じとり、それを自分のからだの中において創りだす能力である。」野口三千三は、心(心情)・からだ(動き)・セリフ(ことば)の一体化の表現として演技をとらえている。朗読の表現でもまったく同じことが言える。 at 05/31 08:14

WATANABE_tomo / 渡辺知明
今朝ハッと思った。『○○の教科書』といったら何を想像するか。教科書とは平均的な知識を集めた本だ。これまでの朗読の本もまるで教材集だ。作品をそのまま資料にまとめたものばかりだ。だが拙著『朗読の教科書』は勉強の仕方を実践的に書いた本だ。学校の勉強に対する予備校の授業のようなものだ。 at 05/31 08:08
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2012年05月31日

2012年05月30日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
日本朗読検定協会で初の『朗読の教科書』の講習会が決まった。6月17日(日)に東京で開催される。朗読の基礎理論についての解説はもちろん、実際に参加者に発声・発音、アクセント、イントネーション、プロミネンスなどの表現の体験をしてもらう予定だ。https://t.co/xPZ4ZKNL at 05/30 22:04

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読では文章を「会話」と「地の文」とに分ける。メルロ=ポンティの概念なら会話は「地」から浮き出る「図」になるわけだ。『朗読の教科書』の「記号づけ」は作品の活字の並びから「図」を切り出す作業である。記号をつけた部分は会話に限らず字づらから浮かび上がるので意味を持った声に変わるのだ。 at 05/30 10:28

WATANABE_tomo / 渡辺知明
いい朗読を聴くと元気が出る。それは、生きている証として息を使って命がけで読んでいるからだろう。懸命に生きている人を見ると励まされるのは朗読でも同じことだ。文学作品と真剣に向き合って、その意味を解き明かそうとする努力が声の表現となって出ていれば、聞き手も襟を正す思いになるのである。 at 05/30 00:39

WATANABE_tomo / 渡辺知明
新しい機械の操作はマニュアルがないと始められない。だが、朗読は声が出て文字が読めるならばすぐに始められるのだからマニュアルなど不要だと思われる。それが困る。最も根本的なことこそ生涯をかけて学ぶ必要がある。あなたはどうやって本を読むのですか。『朗読の教科書』で基礎から学びませんか。 at 05/30 00:33

WATANABE_tomo / 渡辺知明
話し方で大切なのは何を話すかということよりも、どのように話すかということだ。世間では字づらの内容が正しければ、それでよしとしているが、声となるとその問題点が明確になる。アクセント、イントネーション、プロミネンスの不正確な語り方は意味をなさないのである。朗読の表現もまったく同様だ。 at 05/30 00:18

WATANABE_tomo / 渡辺知明
インターネットで公開される朗読を聴くと寂しくなる。ひそひそとささやくような声で1人ごとのようにつぶやいて、ラジオ放送の朗読のもの真似のようだ。せっかく自分の生きてるエネルギーの一部を使うのだから生きている証しとしての読みをしてほしい。それが聞き手にも生きる希望と勇気を与えるのだ。 at 05/30 00:11
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2012年05月30日

2012年05月29日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の究極といったら、禅の修行のようになる。つまり、声に出して作品を読むこととは、人間が生きることそのものになる。その修行の方法と理論とを言葉で語ろうとしたのが、鈴木大拙、メルロ=ポンティ、野口三千三などの人びとだ。禅の世界は普遍的・国際的な哲学であり、全ての人間の人生なのだ。 at 05/29 23:37

WATANABE_tomo / 渡辺知明
『朗読の教科書』による「表現よみ通信添削講座」を開始する。表現よみで音声言語能力を高める講座だ。(1)話し方、(2)文学、(3)古典、(4)読み聞かせの4コースを用意。自由と課題の2本立て、助言はシャドーイングによる音声録音によるものだ。http://t.co/nPfbihM7 at 05/29 23:28

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の「語り口」の表現者の見本は、美空ひばりかもしれない。わが師もそう語った時期がある。歌謡曲、演歌、民謡、長唄、ジャズ、シャンソンなどを、それぞれの曲に合わせて変化させ歌い分けていた。そんな朗読のできる人の読みは表現よみと言える。一つのパターンであらゆる作品を読むのは音声訳だ。 at 05/29 20:33

WATANABE_tomo / 渡辺知明
いい舞台を見て「面白かった」というのは自然だが、朗読で「面白かった」という言葉はあまり聞かない。「上手だ」とか「うまい」とかはある。なぜだろうか。学校教育で教科書を「読まされた」という経験からくるのではないか。読みの細かい技術ばかりに耳が行くし読みも表現まで届いてないからだろう。 at 05/29 20:17

WATANABE_tomo / 渡辺知明
6月3日(日)14:30〜渡辺知明・表現よみ独演会第21回太宰治特集=ニューオータニイン東京(山手線大崎駅)「富嶽百景・猿ケ島・吉野山」「きりぎりす(ゲスト馬場精子)」太宰の「語り口」の読み分けは朗読から表現への通路だ(学割1000円)。http://t.co/3xOUg7xE at 05/29 20:04
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2012年05月29日

2012年05月28日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
野口三千三が朗読概念を覆す。「言葉はあくまでも自分自身の内側の問題(認識・思考・創造)であって、自分自身を確認するためにあるのだ。言葉が持つ他とのコミュニケーションの媒体としての意味(伝達・表現)も、自己(人間)の実存(現実存在・事実存在)の確認の一つの方法としてあるに過ぎない」 at 05/28 18:30

WATANABE_tomo / 渡辺知明
野口三千三が朗読劇の演出家を批判する。「観客が飽きないように動きをつけ変化を与えた」というのは「観客を大切にしているかのようでありながら、観客を侮辱するのも甚だしいというべきである。観客を大切にするということは観客を無能として、ご機嫌をとり、おせっかいを焼くことでは断じてない。」 at 05/28 18:23

WATANABE_tomo / 渡辺知明
野口三千三が朗読劇を語る。「朗読劇においては作品も俳優もヌードのようなものだ。まがいものは化けの皮が剥がされ、美しい本物はより美しく輝いてくる。私は朗読劇は可能である、と考える。ただし、それに耐えうるようなすぐれた作品と俳優によらなければならない、という厳しい条件つきで。」 at 05/28 18:13

WATANABE_tomo / 渡辺知明
野口三千三が朗読劇の俳優について語る。「いかにも役の人物らしく動き回る俳優は、動きもセリフも宙に浮いて実在感が薄く、本を持っていることが目ざわりになった。ただそこに居てほとんど本の中に食い入っている俳優にて、かえって役の人物の実在感を強く感じ、本を持っていることを忘れさせた。」 at 05/28 18:10

WATANABE_tomo / 渡辺知明
野口三千三『原初生命体……』より下条正巳が朗読劇を語る。「舞台で本を持って読んでいるのにその本が、文字が毎回新鮮なんです。(略)普通の芝居ではやはりせりふを早く覚えなければという姿勢がありますが、今度は本を読むことに集中できたのでかえって文字が自分の中で生きものになるのです。」 at 05/28 18:06
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2012年05月28日

2012年05月27日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読でも演技でも人間の身体行動について考えるときの基礎は野口三千三『原初生命体としての人間』だ。「第5章ことばと動き」では、自分はことば以前を問題にしたがと断ってから、ことばと動きの関連をこう語る。「体操(引用注=人間)の問題のすべてがことばの問題である、とさえ考えられるのだ。」 at 05/27 23:38

WATANABE_tomo / 渡辺知明
表現よみオーの会の9月2日(日)公演で『さくらんぼ畑』のドラマリーディングをする予定だ。チェーホフ『桜の園』の新訳を堀江新二氏が改題した本だ。この上演の舞台はまだないから、この上演は初になるだろう。同氏訳の『かもめ』はすでに上演している。http://t.co/qujrkDwo at 05/27 23:03

WATANABE_tomo / 渡辺知明
元アナウンサー小林大輔さんが、別所哲也さんの朗読を高く評価している。残念ながら、わたしは聴けなかったが、この批評は信頼できるだろう。ただ、影の演出家の存在については、わたしは首をひねる。朗読の出来不出来の責任はすべて読み手が負うのである。http://t.co/8rSqT9BO at 05/27 22:34

WATANABE_tomo / 渡辺知明
渡辺知明・表現よみ独演会第21回太宰治特集=6月3日(日)14:30ニューオータニイン東京(山手線大崎駅)「富嶽百景」「猿ケ島」「吉野山」「きりぎりす(ゲスト)」太宰の様々な「語り口」の読み分けが朗読から表現への通路だ(学割1000円)。http://t.co/3xOUg7xE at 05/27 12:40

WATANABE_tomo / 渡辺知明
[exblog] 上毛新聞の『朗読の教科書』のインタビュー記事 http://t.co/fGfwC4MZ at 05/27 08:41

WATANABE_tomo / 渡辺知明
文の理解はどのように行われるか。文をバラバラの単語に分けて、意味をつなぎ合わせるわけではない。文字を見て音のイメージで2音3音に切り分けて、そのたびに呼びかけと応えとを繰り返しながら、文の全体構造の意味を目指して進む。その作業は声によってのみ行われる。音読や朗読の意義はそれだ。 at 05/27 08:25

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読にとって文法がまるで問題にされて来なかったのは、これまでの文法がもっぱら文字の解釈を目的としたからだ。そもそも言語が音声であるということが忘れられていた。だが露伴は「音幻論」で文字の言語と音声とがどれほど違うものか論じている。また、漱石、太宰は自作の朗読を意識的に試みている。 at 05/27 08:16

WATANABE_tomo / 渡辺知明
『朗読の教科書』で提起した問題は、今後の朗読理論を考える者にとって避けることができない。たとえば、発声の姿勢、腹式発声と腹式呼吸、日本語のリズム、声の質の定義、音声言語の文法、記号づけの方法、文学作品の「語り口」の分類、作品解釈と声との関係である。そう、何よりも「朗読」の定義だ。 at 05/27 08:12

WATANABE_tomo / 渡辺知明
雨と風の組み合わせから朗読での複合語のアクセントとイントネーション原理がわかる。雨風が「雨と風」の意味なら「アめかゼ」、「雨交じりの風」なら、意味の重点は「風」なので、情報伝達価値の高い「雨」を立てて「あメかゼ」とメが高くなる。「メ」を上げずに「あメかゼ」と言うと伝達力が落ちる。 at 05/27 08:01
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2012年05月27日

2012年05月26日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
なぜ朗読が文学作品の表現になるのか。初めは文体への関心だった。作品の感動はどこから生まれるか。文章をおいてない。ならば、どのような文章が感動を生み出すのか。どうしたら文学の感動を徹底的に味わい尽くせるのか。自らの声で味わう味わいが文学の本質だと気づいた。それを表現よみというのだ。 at 05/26 23:35

WATANABE_tomo / 渡辺知明
『朗読の教科書』をまとめて買ってくださる朗読グループが増えてきました。朗読理論の普及のために全国に朗読講演に出かけます。まず10冊以上お買い求めをお願いします。本からでは読み取れない朗読の実践方法について直接にお話しをしたいと思っています。どうぞご遠慮なくお問い合わせください。 at 05/26 22:58

WATANABE_tomo / 渡辺知明
『朗読の教科書』はまだ学校の国語の先生方には広まっていないようだ。文部科学省学習指導要領準拠の朗読の本は多分、日本で初めてだろう。しかも朗読に限らず、文法の基礎、文章の読解から、文学作品の構造論にまで及んでいるのである。音声言語指導のためには欠くことのできない分野の本なのである。 at 05/26 10:33

WATANABE_tomo / 渡辺知明
意外な人に「まさか、朗読に教科書があるなんて知らなかった」と言われた。確かにこの数10年間、教科書らしい教科書はなかった。いったい何冊、役に立たない本を買い込んだことか。だから、わたしは『朗読の教科書』では、1冊で、朗読の基礎から最高レベルの上達段階までの道を示そうとしたのだ。 at 05/26 10:29

WATANABE_tomo / 渡辺知明
『朗読の教科書』で示した「語り口」は10通りだ。アナウンスとナレーションは外した。これらは文学表現ではないからだ。いわば生活から離れた一つの技術として作り上げられたものである。だが村上春樹『風の歌を聴け』のように、今後、作中に取り入れられる可能性がある。その場合は文学表現となる。 at 05/26 08:37

WATANABE_tomo / 渡辺知明
5月26日(土)14時30分から東京原宿で『朗読の教科書』の第3回の講義をする。日本のコトバの主催で非会員も参加できる。今回は第2章姿勢・発声・発音についての基本を解説する。姿勢や発声の非常識な常識について基本的な誤解を批判することになる。http://t.co/EiBsvbGI at 05/26 07:31
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2012年05月26日

2012年05月25日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
数年前に、朗読のラジオ番組をイメージして作成した「声でよむ名作本(2)川崎大治『日本のとんち話』」を再アップした。以前よりも朗読作品は増えてきたが、番組として作成されたものはまだまだ少ないようだ。作品の読みと解説をセットにしたものである。http://t.co/V53PEtMr at 05/25 23:26

WATANABE_tomo / 渡辺知明
すぐれた俳優は役を演じていたときと日常とでは話し方から顔つきからまるでちがう。役のときの方がはるかに魅力的である。朗読の声もそうであってほしい。日常の話し方よりも声に張りがあって歯切れもメリハリもよく読んでほしい。それが朗読の表現なのだが、日常の地続きで読む人がまだ目立つようだ。 at 05/25 13:08

WATANABE_tomo / 渡辺知明
「朗読は人に伝えるもの」という常識を疑うべきだ。読みとは創造的なものだ。読み手が作品の構造を読み解き理解する過程に聞き手の存在が関わっている。文の各要素が呼びかけと応えとに分かれて対話となるのは、聞き手の立場が刺激になるからだ。朗読は読み手から聞き手への一方的な情報伝達ではない。 at 05/25 11:10
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2012年05月25日

2012年05月24日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
太宰治の「ロマネスク」から「喧嘩次郎兵衛(前半)」を「お話しPodの表現よみ作品集」にアップした。朗読から表現よみへの発展の表現である。法螺話の流れをくむ講談調の語りである。(12年5月11日。日本のコトバ川崎朗読の会のおさらい会で録音)http://t.co/Gmk2cAfb at 05/24 23:55

WATANABE_tomo / 渡辺知明
テレビ番組に美味いものの食べ歩きがある。朗読も文学作品の食べ歩きのようなものだ。読み手が、その文学作品をどのように味わっているのか、味わいの過程を声で記述するのだ。まずは読み手がしっかり味わわないと言葉は宙に浮いてしまう。聞き手がまるで自分も味わっているように感じられたら成功だ。 at 05/24 23:24

WATANABE_tomo / 渡辺知明
文学作品の朗読は、もしかして文化財保存のような作業なのかもしれない。なぜなら、文字の文学とは、いわば冷凍食品なのである。生きた人間の声にして価値がある。だが今後、冷凍食品が解凍されぬまま、未来へ先送りされるかもしれない。まだ、新鮮な文学の味が分かるうちに一度、解凍せねばならない。 at 05/24 22:21

WATANABE_tomo / 渡辺知明
古代の文学は文字として残された。お陰で私たちは古典を読み味わうことができる。だが今後は多くの人が音声のイメージを浮かべられなくなるだろう。近代文学の声のイメージも危うい。だが現代の録音技術がある。私は、日本語をラテン語にしないために文学を朗読として記録する必要があると感じている。 at 05/24 22:15

WATANABE_tomo / 渡辺知明
漢字と朗読とは言葉の対極に位置する。漢字は文字の言葉、朗読は音声の言葉の象徴である。言葉の力といえば、かつては、「どれだけ多く漢字を知っているか」ということだった。だが、人と人とが直接に向き合う場では、文字のやりとりは虚しいものだ。拙著『朗読の教科書』は声の言葉の基礎探求なのだ。 at 05/24 17:04

WATANABE_tomo / 渡辺知明
文章の読解について根本が問題にされない。「意味はいつ生まれるのか」ということだ。これはメルロ=ポンティや竹内敏晴のテーマである。朗読とは声で意味を生みだす行為である。黙読した記憶から考えだした解釈は意味でない。あとから声には乗せられない。朗読過程のどこで意味が生まれるか考えたい。 at 05/24 15:14

WATANABE_tomo / 渡辺知明
自分以外の者を表現するのが演技ならば朗読と演劇は共通だ。演劇では1人の人物に入るのが目標だ。その手段として身体行動がある。朗読では発声のみが身体行動である。声だけで人物に入るために声の比重が大きい。しかも1人でなく最低限、語り手と人物とに入らねばならない。多次元の声が必要である。 at 05/24 15:08

WATANABE_tomo / 渡辺知明
拙著『朗読の教科書』を読んで下さっている読者による内容の紹介です。(1)強弱アクセント、(2)記号づけの2点についてのコメントです。朗読上達の方法と結びつけて実感を語っています。また、朗読と演劇に関係について、疑問も提起して下さいました。http://t.co/2MzASsxd at 05/24 14:52

WATANABE_tomo / 渡辺知明
渡辺知明・表現よみ独演会第21回太宰治特集=6月3日(日)14:30ニューオータニイン東京(JR山手線大崎駅)「富嶽百景」「猿ケ島」「きりぎりす」「吉野山」太宰の様々な「語り口」をどう読み分けるかが朗読から表現への通路だ(学割1000円)。http://t.co/3xOUg7xE at 05/24 12:00

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読には、「読む、語る、話す、言う」など、言葉を声にする場合のさまざまな要素が含まれているのである。作品の「語り口」の各部分では、いずれかの「物言い」が表現されている。読み手の声を一と色に固定できないことは当然のことである。だが、理論的に複雑になるので、単純化したがる傾向がある。 at 05/24 10:45
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2012年05月24日

2012年05月23日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
6月3日(日)渡辺知明表現よみ独演会第21回の京都からのゲスト・馬場精子さんの宣伝ページです。太宰治「きりぎりす」を読んでいただきます。女性の語りの作品をこんな風に読めるひとは日本でもめったにいません。東京周辺のかたはぜひお出かけください。http://t.co/ORG47c7p at 05/23 14:36

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「教科書的」とは批評の言葉だ。だが、今の日本では、文化的な道徳的な問題について、教科書的なレベルの知識や常識すら危ういのだ。だから朗読においても、『朗読の教科書』の価値があるだろう。議論の土台がなければ理論は進歩しないのである。まず共通の土俵を定めることから始めなければならない。 at 05/23 11:39

WATANABE_tomo / 渡辺知明
音声訳の人たちは教科書で勉強するが朗読や読み聞かせをする人たちは勉強しない。音声訳は録音に残すので文字の読み間違いやアクセントの間違いには責任を感じる。だが朗読や読み聞かせは録音が残らないから責任も感じない。文の意味を表現する難しさへの諦めもあるか。朗読の教科書がなかったからだ。 at 05/23 10:22

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メルロ=ポンティの試みたような音声言語についての哲学が必要だ。音声のジャンルには、朗読、アナウンス、ナレーション、読み聞かせ、語り、演芸、演劇、などさまざまある。だが、「話す、語る、読む、考える、伝える」などの原理について共通基盤となるべき研究ジャンルは朗読のほかにはないだろう。 at 05/23 09:18
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2012年05月23日

2012年05月22日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読で自分の表現力の貧しさに気づいた人は「語り」のジャンルに逃れようとする。だが、朗読のジャンルに責任があるわけではない。朗読で表現力を発揮できない者が「語り」に移ろうが、演劇に移ろうが、声の表現能力が変化するわけでない。問題は現行の朗読がほとんど表現の体を成していないことだ。 at 05/22 23:34

WATANABE_tomo / 渡辺知明
俳優たちはどうして演技と朗読との間にきっちりと線を引くのだろうか。それは素朴な朗読概念にしばられているからだ。「朗読=読む」とは、そう単純な図式ではない。何を読むか、どんな作品を読むかによって、読みは表現に関わらざるを得なくなる。その連続性は拙著『朗読の教科書』で論じたつもりだ。 at 05/22 23:23

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の原理として、高低アクセントを選択するか、強弱アクセントを選択するかは重要な問題だ。単にアクセントに限らず、発声・発音はもちろん、イントネーションやプロミネンスの表現方法まで規定する。それどころか文の理解の度合から、からだの動きまで決定する強制力を持っているのだから恐ろしい。 at 05/22 23:15

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読のアクセントには2種類ある。1つは「伝達アクセント」で、アナウンスのためのアクセントである。高低アクセントを基礎にアクセント辞典に体系化されたものである。もう1つは「表現アクセント」で、朗読や演劇の台詞など声の表現の原理となる。強弱アクセントを基礎にして成り立つものである。 at 05/22 23:10
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2012年05月22日

2012年05月21日に渡辺知明が語る

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朗読においてもいくつかのコンテストがある。それぞれ規準があるのは当然だ。それは一方的に応募者が評価されるものではない。実は、応募者の側もコンテスト自体を評価する立場に立ったことを意味するのだ。だから応募する意志を持ったことが、その目標に向かう応募者の実力を高めたといえるのである。 at 05/21 22:43

WATANABE_tomo / 渡辺知明
渡辺知明・表現よみ独演会第21回太宰治特集=6月3日(日)14:30ニューオータニイン東京(JR山手線大崎駅)「富嶽百景」「猿ケ島」「きりぎりす」「吉野山」太宰の様々な「語り口」をどう読み分けるかが朗読から表現への通路だ(学割1000円)。http://t.co/3xOYNHGO at 05/21 21:40

WATANABE_tomo / 渡辺知明
拙著『朗読の教科書』をテキストにした通信教育による朗読講座がはじまった。日本朗読検定協会の通信朗読講座である。わたしが内容についての監修をしている。近くに朗読の教室がないとか、個人で受講したい方、初心者の方にとっては一つの学習の場になる。http://t.co/EuAC9kzV at 05/21 21:22

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読は原則的に文学作品を読むものである。それ以外の文章でも「語り口」が表現されれば作品となる。意外にむずかしいのは作家の講演である。おそらく話しコトバがそのまま文字化されたものではないだろう。そこからは作家の微妙な言い回しが消えているからだ。再現するには読み手の表現力が必要だ。 at 05/21 10:42
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2012年05月21日

2012年05月20日に渡辺知明が語る


WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読というと人のために読むものと思いがちだ。すると、言葉の響き具合を気にして、自分の声を聞かせてしまう。悪い意味での読み聞かせになる。だが自分のために読むと考えたらどうか。この文章はむずかしいと思うと言葉を口に出して理解するものだ。意味を納得するときの声は確信に満ちたものになる。 at 05/20 10:10

WATANABE_tomo / 渡辺知明
谷川俊太郎「いるか」の1行目「いるかいるか」をどう朗読するか。語句で4通りだ。(1)居るか居るか、(2)居るかイルカ、(3)イルカ居るか(4)イルカイルカ。アクセントによる読み分けで意味が創造され、さらに背景感情まで加わるのだ。以下同様の作業が続くのだから表現は多様なものになる。 at 05/20 09:12

WATANABE_tomo / 渡辺知明
もしも○○の教科書などという本を見たらまず疑ってかかる。だいたい「教科書」などというものは胡散臭いものだ。「教科書的」とは世間の常識に対する批評のことばである。だが太宰治「水仙」の忠直の例がある。常識を一捻りしたい。『朗読の教科書』は「教科書」というものの意味を問い直したものだ。 at 05/20 08:25

WATANABE_tomo / 渡辺知明
かつて3色で本に線を引く方法が唱えられた。原則としては好みと主観による文章の読み方だ。文をざっと読んで印象による判断を下す。『朗読の教科書』の「記号づけ」も同様のものと想像する人がいる。だがこちらは、直感による評価の記録ではない。理解と解釈の前提となる文構造の把握のためのものだ。 at 05/20 08:09
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2012年05月20日

2012年05月19日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
2012年5月14日上毛新聞に『朗読の教科書』の記事が掲載された。見事に話がまとまった。「中学生や高校生はもちろん教員や読み聞かせに取り組む人たち、政治家、俳優など日本語を表現したい人たちに読んでもらいたい」というまとめがいい。 http://t.co/4EmiRpi8 at 05/19 22:58

WATANABE_tomo / 渡辺知明
2012年7月29日(日)八王子で子どもいちょう塾の講師として『朗読の教科書』をテキストにして朗読講座を開催します。対象は小学校4、5、6年生、無料で受講できます。発声・発音の基礎練習、リズムある読み、詩や物語の読みを楽しみながら行います。http://t.co/c9CZVEYl at 05/19 19:44

WATANABE_tomo / 渡辺知明
本日、小学校国語教科書で声に出して読む課題を見た。教員はどうやって指導したらいいのか戸惑うにちがいない。だが、拙著『朗読の教科書』には、さまざまな指導の方法が書かれている。アカデミー割引(5冊以上1冊2000円送料無料)を生かして、多くの教員の方々に入手してもらたいたいと思う。 at 05/19 19:37

WATANABE_tomo / 渡辺知明
6月3日(日)渡辺知明表現よみ独演会第21回の京都からのゲスト・馬場精子さんの宣伝ページです。太宰治「きりぎりす」を読んでいただきます。女性の語りの作品をこんな風に読めるひとは日本でもめったにいません。東京周辺のかたはぜひお出かけください。http://t.co/ORG8EMgz at 05/19 19:32

WATANABE_tomo / 渡辺知明
音読、朗読、語り、演技――このちがいが原理的に説明できるか。それぞれの表現を磨くには、理論的な目標設定が必要だ。天才的な表現者ならば、無意識のうちに自分の表現の到達目標が定められる。だが一般人には、まず理論的な区分が必要なのだ。『朗読の教科書』の一つのテーマはこの区分にあった。 at 05/19 09:36

WATANABE_tomo / 渡辺知明
「記号づけ」は演劇の台詞の分析にも有効だ。『朗読の教科書』では「ごん狐」の対話を例にして、演劇の台詞の基礎的な分析の方法を示した。まず、台詞を声で理解して読むことが演技の基礎になる。下手な俳優は演出だよりの演技をしている。大竹しのぶのように徹底的に台本の理解にこだわるべきである。 at 05/19 09:29

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読は単なる趣味ではない。人に聞かせたいという思いから始まるが、訓練を続けるうちに自分の言語能力の高まりを感じる。日常の話し方や人との対話の能力が高まるのだ。なぜなら、朗読とは音声言語能力訓練法の1つだからだ。その理論的な基礎づけと訓練方法は、拙著『朗読の教科書』に書かれている。 at 05/19 09:17

WATANABE_tomo / 渡辺知明
通信教育での表現よみの指導を考えている。テキストを変えるだけで、一般社会人の話しかたから、詩や小説などの文学的な表現能力の向上など、さまざまな音声言語訓練に対応できる。というのも、文学作品のテキストの「語り口」というものがそれだけ豊かだからだ。狭い意味の朗読教育では対応できない。 at 05/19 09:08

WATANABE_tomo / 渡辺知明
『朗読の教科書』のアカデミー割引を考えました。学校・教育関係の方々に読んでもらいたいからです。5冊以上まとまったらお知らせ下さい。送料無料の1冊2000円(定価2205円)でお分けします。対象は、学校教員、学生、朗読グループ代表者などです。10冊以上なら解説講習会も引き受けます。 at 05/19 08:56
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2012年05月18日

2012年05月17日に渡辺知明が語る

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発声は口先のものではない。朗読の表現全体を貫くものである。マイクを使うことに慣れてしまうと気づかないが、身体の沈み込みが、息、ノド、舌、口という一連のつながり――息のコントロールから発音の明晰さまで支配している。『朗読の教科書』では、息の吐き方を基礎にした発声の訓練法を示した。 at 05/17 21:04

WATANABE_tomo / 渡辺知明
文章を書く過程において、自分の文章を正確に読んで意味を理解することは重要だ。書く過程の半分は読む過程だからである。だが、文章論の本でそれを重視したものはない。『朗読の教科書』での記号づけは、文章構造の読み取り作業の方法でもある。その読み方が文章構成力を育てるのも当然のことである。 at 05/17 15:19
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2012年05月17日

2012年05月16日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
学校で教科書を読まされた苦い経験が畏まった朗読の原点にあるのではないか。体を妙に緊張させて文章を読み上げる。聞き手にどう聞かれるかドキドキしている。どうしたら、読んで楽しい聞いておもしろい朗読ができるか。まず、声に出すことで自分が作品を理解する楽しみを味わうことから始まるだろう。 at 05/16 22:42

WATANABE_tomo / 渡辺知明
日本語において音声言語の文法というものはほとんど手つかずの状態である。というのも、文法研究者たちが取り扱うのは文字に書かれた文であって、おそらく声に出して研究するような人たちはほとんどいなかったからだろう。拙著『朗読の教科書』は実は音声言語の文法まで意識した画期的な本なのである。 at 05/16 19:39

WATANABE_tomo / 渡辺知明
3月25日放送の『池坊美佳のさわやか文庫』Podcast Blogがアップされた。『朗読の教科書』の企画から完成まで、出版社と朗読検定協会の話が聴ける。朗読と表現よみとの関係も話した。わたしは「吾輩は猫である」を読んだ。ぜひお聴きください。http://t.co/PVduJ2Bw at 05/16 12:04
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2012年05月16日

2012年05月15日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
拙著『朗読の教科書』は朗読上達のための実践の本であるが理論の本でもある。理論が役に立つのは、自らの実践に行き詰まりを感じて、その打開の道を探すときである。朗読の勉強でも同じだ。まずは気に入った作品をひたすら読んで見ること、そして、実践的な問題点を発見したとき理論に頼ればよいのだ。 at 05/15 11:11
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