2012年07月17日

2012年07月16日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
現代は益ます文学とは何なのか分からなくなってしまった時代だ。小説だけが文学ではない。詩、随筆などはもちろん、文章そのものの文学的な魅力というものが分かるかどうか。文字の表面的な読みから抜け落ちがちのもの、声とからだを使った朗読で味わい取れるもの、わたしはそれを探求しようとする。 at 07/16 11:08

WATANABE_tomo / 渡辺知明
作品の解釈と朗読の表現とは別物でない。からだが行なうこと自体が表現なのだ。無意識あるいは無心の状態だ。作品を知的に解釈して声に写したのではつまらない。意識はからだが反応したあとから生まれるものだ。実践のためのことばの指示も、ムダな意識を外してからだを動かすために行なうこともある。 at 07/16 09:12

WATANABE_tomo / 渡辺知明
武者小路実篤の文学というと、単純な文で書かれた作品というイメージがある。だが、文学の基本である人物の内面性の的確な表現があるのだ。人物の内面に「はいる」ためにどのような技術があるかというのは記号づけから分かる。「友情」5(新潮文 http://t.co/TaXPMrXl at 07/16 08:44

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の基礎として重要なものの1つはテキストをどう捉えるかという考えだ。文学作品おもに小説や物語であるのを前提として、次のような考え方がある。(1)音に変換するべき文字の並び、(2)放送して伝える原稿、(3)会話を拾い出して演ずるべき台本。それぞれの解釈による朗読のジャンルがある。 at 07/16 07:46

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読において文の意味はどのように理解されるのか。2つの角度の統一にあるだろう。1つは、文の構造の把握―記号づけによる足場づくり、2つは、音声化という身体行動―アクセント、イントネーション、プロミネンスを目標とする音声化である。双方は音声表現という目標において支え合う関係にある。 at 07/16 07:26

WATANABE_tomo / 渡辺知明
体操選手・内村航平の強みは「着地」だ。着地は演技の到達点である。それまでの技がまとまってかたちを成す。朗読にも着地がある。『朗読の教科書』に書いたからだの沈み込みだ。一節ごとあるいは一文ごとの後ろ腰による押さえが表現を生むのだ。文構造で言うなら「くさび形」による意味のまとまりだ。 at 07/16 07:15

WATANABE_tomo / 渡辺知明
一般に朗読でむずかしいのは会話だと思われている。しかし、本当にむずかしいのは地の文の中の内言である。他人に向けるコミュニケーションのことばではなく、自らの意識を自覚するために内面でイメージとして語られることばである。自己確認の言語といってもいい。それは自らの人間性の確認でもある。 at 07/16 00:02
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2012年07月16日

2012年07月15日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
体操の内村航平さんが技を身につけるときには「3人称イメージ」ではなく、「1人称イメージ」だそうです。つまり、外から想像するのでなく、演技者に「なりきる」ことができたとき、景色が浮かんで技ができるのです。朗読も同様です。3人称の立場はナレーションで、1人称で作品の表現になるのです。 at 07/15 23:20

WATANABE_tomo / 渡辺知明
古典の朗読で読み手が試されるのは、原文をそのまま読みながら、どこまで自らの理解と解釈とを声で表現できるかである。現代文の朗読でも、この本質は変わらない。書かれた文の音韻そのままで、文の背後の論理や感情を声に表現するのである。もし原文を別の文に書き換えたら作品はちがった意味になる。 at 07/15 15:49

WATANABE_tomo / 渡辺知明
外国文学で翻訳にこだわらない朗読は信用できない。作品は文章のかたちで生きている。翻訳の文体丸ごとが作品の表現だ。訳が違って伝わる部分は作品の筋や大まかな内容なのだ。同様に、日本語オリジナルの文学作品において文体を意識しない朗読も信用できない。それでは朗読でなくナレーションになる。 at 07/15 09:54

WATANABE_tomo / 渡辺知明
名訳者リスト(覚え書き)サン=テグジュペリ『星の王子さま』稲垣直樹、ドーデー『陽気なタルタラン』小川泰一、シェイクスピア『ハムレット』河合祥一郎、チェーホフ『かもめ』堀江新二、ヘッセ『車輪の下』実吉捷郎、チャペック『ダーシェンカ』飯島周、ヘッセ『人は成熟するほど若くなる』岡田朝雄 at 07/15 09:36

WATANABE_tomo / 渡辺知明
外国文学の翻訳では訳者のセンスが問われる。何人かの翻訳を比べれば、よい翻訳は見つかる。翻訳者の年齢による成熟もあるだろうから若いころのものとその後のものを比較したい。ある人が36歳で訳した『車輪の下』よりも別の人の63歳の訳がずっといい。訳者のセンスと年齢と両方が生きているのか。 at 07/15 09:24

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読は私が本に集中する手がかりを作ってくれる。ヘッセは言う。「私たちは、推奨されて、読み始めても気に入らず、読み続けるのを妨げ、その中に入り込ませようとしない作品を、無理をしたり、我慢したりして読み通そうとするべきでなく、そういうものは放棄すべきである。」p80『ヘッセの読書術』 at 07/15 09:04

WATANABE_tomo / 渡辺知明
「朗読する作品をどうやって選んだらいいのですか」と問われることがある。そんな人には『ヘッセの読書術』(2004草思社)をお勧めする。ヘッセも朗読が読書の方法として重要だという。作品の選択の段階から朗読という行為は始まってる。朗読では自分にとって価値ある本を選ぶ能力も身につくのだ。 at 07/15 08:57

WATANABE_tomo / 渡辺知明
いい翻訳によって外国文学の内容を見直すことができる。ヘッセは岡田朝雄『人は成熟するにつれて若くなる』『ヘッセの読書術』(草思社)で見直した。これまで読んだ高橋健二訳の印象とは別の作家を読むような感動がある。おそらく、ドイツ語の原文の構造までもできる限り日本語訳に生かしたのだろう。 at 07/15 08:50

WATANABE_tomo / 渡辺知明
日本語の文の特徴は文末決定性であると言われる。だが名文を声に出して読んでいくと、「文末不要性」とでもいう性格が感じられる。冒頭の語句から順序どおりに声で意味を確認していくと、文末に行けば行くほどわざわざ声を立てる必要がなくなる。そして最後の語句が尖った楔のように心に突き刺さる。 at 07/15 08:44

WATANABE_tomo / 渡辺知明
上越市で議員をしている滝沢一成さんが『朗読の教科書』について紹介してくださった。丁寧に内容を紹介しながら、コトバの力を高めるのに有効だと書いている。とくに2音3音の日本語リズム論について注目してくださった。話し方のリズムの根拠もここにある。http://t.co/erSMhqY7 at 07/15 00:31
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2012年07月15日

2012年07月14日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
コトバの豊かさは語彙の知識の量ではない。筆記試験で試されるのは知識だ。だが、人と人とが向かい合うときには、個々人の音声言語の運用能力が問われる。耳慣れた語句であっても、文脈に応じて、場に相応しい声で的確に使える力である。そんなコトバの能力こそ、人が人として生きる力となるものだ。 at 07/14 12:26

WATANABE_tomo / 渡辺知明
『朗読の教科書』はそもそも文の読み方が書かれた本だ。だからAmazonの国語教育のジャンルでも売り上げ上位になっている。声に出すために必要な文と文章と作品の理解の方法を文分析と記号づけという方法で解き明かしている。この方法は、黙読で読む場合にも内言を活発化させるという効果がある。 at 07/14 12:10

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の発声法としては、西洋の声楽の発声よりも、日本の伝統的な発声法から学ぶものが多いだろう。歌の発声法は声を伸ばして響かせるものだが、朗読の発声は細かく刻んで区切りをつけるものだ。2音3音区切りごとのアクセントが基本になる。原則は沈み込みによるアフタービートの後ろアクセントだ。 at 07/14 08:51

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読のための作品の文体が問題だ。どんな文章を選ぶかによって、読み方は決まる。新聞のような伝達いっぽんやりの文体ならばナレーションとなる。それに対して、文学的な表現性のある文体なら、声そのものが表現となるはずだ。声の表現力のある散文は詩に近づくものだ。その理想は志賀直哉の文体だ。 at 07/14 08:39

WATANABE_tomo / 渡辺知明
『朗読の教科書』では声の質的な要素を5つとりあげた。(1)大小、(2)高低、(3)長短、(4)軽重、(5)強弱、である。(1)から(3)までは機械的に測定できる。だが、実際の声の表現は要素に分解できない。聴き方によって、高く軽い声、強く軽い声、小さくて強い声などと複合されるのだ。 at 07/14 07:50
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2012年07月14日

2012年07月13日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
日本語アクセントが高低だとは、まるで常識になっている。だが問題にするべきことは、どんな音声データをもとに言えるかだ。言語学者・金田一春彦氏は日本語の日常言語は強弱アクセントによるということ明言している。アクセントはアクセントであり、高低とか強弱とか単純には定められないものなのだ。 at 07/13 23:19
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2012年07月13日

2012年07月12日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
若い人たちが朗読に感動するのはなぜか。ビジュアル世代というものがありそうだ。メディアの特徴としては、画像がメインで言語音声が補助として加わる。だから画像を切りはなした言語の音声に驚くのだろう。だが、音声中心のラジオで育った世代には、今の音声言語の自立性は不十分に感じられるのだ。 at 07/12 15:28

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読というと、アクセント・鼻濁音・母音の無声化などで神経質になるようだ。それは放送におけるマイクの使い方の技術である。朗読は声を手段として文学作品を理解し表現するものなのだから、そんな細かい技術は無視したらいい。それより、まず重要なのは、読み手が作品と格闘するための声の力なのだ。 at 07/12 12:16

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読は調理に似ている。まず、食材の選び方で料理の仕上がりがほぼ決まる。食材が悪ければ、どんなに手間をかけてもうまい料理にはならない。次は調理法だ。ナマか焼くか煮るか蒸すかの選択は食材による。それから、味付けである。塩味、味噌味、醤油味などいろいろだ。何でもマヨネーズでは困るのだ。 at 07/12 07:35

WATANABE_tomo / 渡辺知明
わたしが野口三千三『原初生命体としての人間』(1972)を読み始めるきっかけとなった記事が見つかった。今から8年前だ。朗読の発声について腹式「呼吸」ではなく、腹式「発声」であるということを書いている。「保息」での発声という考えは新鮮だった。http://t.co/RQ0Ag18Y at 07/12 07:11
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2012年07月12日

2012年07月11日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
拙著『朗読の教科書』に朗読上達の3段階として「音読→朗読→表現よみ」を書いた。表現よみは表現性の観点からいって最高度だ。作品の文体の違いが語り口として声に表現されたかどうかで評価される。コトバの4原則「正しく、わかりやすく、切れ味よく、ふさわしく」の「ふさわしく」が前面に出る。 at 07/11 00:18
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2012年07月11日

2012年07月10日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の上達のための方法として有効なのは自分の読みを録音してよく聞くことである。最低30回は聞きたいものだ。1週間くらいは欠点ばかりが耳についてくる。1ヵ月経つといいところも見えてくる。1年経つと総合的な読みの評価ができるものだ。そのころには通算30回の聞き返しができているだろう。 at 07/10 23:49

WATANABE_tomo / 渡辺知明
日本語の歌詞のある歌なら、メロディーの背後に強弱アクセントのリズムが隠れているのではないか。また、それを生かすことによって「歌心」というものが生まれると思う。強弱アクセントは、まさにアクセントであって、コトバのイントネーションもプロミネンスをも生みだすもとだ。朗読ばかりではない。 at 07/10 19:51

WATANABE_tomo / 渡辺知明
日本語のアクセントはもとは強弱だったのではないか。また、言語を使用する階級による違いも考えられる。古典文を強弱のみで読んでみると能や狂言などの語りの調子に聞こえてくる。発話者の表現意識も感じ取れる。高低は、のちに声から表現性が失われて伝達記号となったときに成立したのではないか。 at 07/10 07:23
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2012年07月10日

2012年07月09日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
その人の話し方から、朗読の仕方が予想できる。ほとんど外れたことはない。拙著『朗読の教科書』は、音声言語の原理を実践的な訓練法として書いたものだ。だから、話し方の訓練にもなる。話し方の上達のために話し方の技術を学ぼうとするが、基礎となる音声言語の訓練から入るほうが上達の早道である。 at 07/09 09:05
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2012年07月09日

2012年07月08日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
オーディオフブックと朗読作品には違いがある。オーディオブックは文字代わりの声が聞こえればいい。音声訳と同等だ。声に異様な感情がなければ許せる。それに対して、朗読では文体を声によって表現することが問われる。その声は作品に相応しい表情である。この聞き分け能力は先ず制作者に求められる。 at 07/08 13:54

WATANABE_tomo / 渡辺知明
親しい俳優から「朗読ではどこまで演技していいのか」と問われたとき、「本来の演技というものは何か」と問い返した。人に見せるとか、何かを示すのでなく、演技者自身が自らの台詞や動きの意味を認識することだ。そして、また野口三千三の「体操」の基本に辿り着く。人間として自らの人生が問われる。 at 07/08 12:32

WATANABE_tomo / 渡辺知明
表現者には批評のエネルギーがなければならない。体力・気力の衰えた太宰といっしょになって溜息をついていてはならない。中期の太宰の「新釈諸国噺」「お伽草紙」は批評のエネルギーに満ちている。そこからエネルギーをもらうために朗読することをお勧めする。それが聞き手を励ます朗読になるだろう。 at 07/08 12:17

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読と演劇の違いはなにか。朗読は主に小説、演劇は台本を声にする。小説の地の文と会話は台本としても読める。だが小説は最初から終わりまで「語り手」による「語り」である。作中人物の声は「語り手」の認識と感情により揺れ動く。作品の外から文章を見るのではない。それでは文章の読み上げになる。 at 07/08 12:11

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読レベルの向上のために、ある線引きが必要だ。アナウンス・ナレーションと朗読との仕切りである。プロの人達には明確な自覚がある。朗読には別の訓練が必要だと語る人は多い。気づかないのは、その周辺にいる一般の人たちである。朗読を学ぶつもりで無意識にアナウンスやナレーションをマネている。 at 07/08 11:49

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の「読み」には深い意味がある(『朗読の教科書』14頁)。せっかくの概念を「聞かせ」や「語り」へと移行させてしまわずに、徹底的に掘り下げたらどうか。朗読が伝達であるという考えは、アナウンスやナレーションから出てきた。声による「体操」とすれば、野口三千三の発想がすべて有効になる。 at 07/08 11:39

WATANABE_tomo / 渡辺知明
「読み聞かせ」は「読み」+「聞かせ」である。読むことの意識と聞かせる意識とが、どのように対立するのか、そこに表現の問題がある。「読み語り」という人もいる。「聞かせる」も「語る」も、ともに聞き手へのはたらきかけの意識が濃厚だ。野口三千三さんならば「自分自身の確認」を軸とするはずだ。 at 07/08 11:32

WATANABE_tomo / 渡辺知明
9月2日に、朗読劇ではなくドラマリーディングとして、チェーホフ「さくらんぼ畑(桜の園)」を上演するわたしには他山の石になる批評である。三谷幸喜さんがどのようにチェーホフと向き合ったか、劇場に足を運ぶ気はないが批評はもっと聞きたいものである。http://t.co/uQaOS0Xa at 07/08 10:13

WATANABE_tomo / 渡辺知明
アクセント辞典は文中から単語を取り出してアクセントを定めようとしたものだ。だが、語句は文中で声の表現として意味を持って生きている。原則としてプロミネンスされる語句から表現力を奪う可能性がある。「しカし」と「いワば」はもとの意味のアクセントではなく、「シかし」と「イわば」が自然だ。 at 07/08 08:33
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2012年07月08日

2012年07月07日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
今日2012年7月7日、すばらしい二人の女優のドキュメンタリー番組をTVで見ることができた。一人は大竹しのぶ、もう一人は桃井かおり。二人とも、俳優の仕事は演技ではなく、人物として存在することの大切さ、人間であることの証明が俳優の仕事なのだと思わせてくれた。朗読の価値もそこにある。 at 07/07 23:06

WATANABE_tomo / 渡辺知明
アクセントの例外について杉藤美代子さんの指摘がある。「遅下がり」「早下がり」では高さが二重になる。それは高さアクセントが1単語に1つという原理を裏切るものだ。これはからだの使い方から簡単に説明できる。3段飛びなら、ホップの次のステップ、ジャンプにあたる。強アクセントの準備なのだ。 at 07/07 22:03

WATANABE_tomo / 渡辺知明
表現よみの理論家・大久保忠利はかつて「聞き手ゼロ」を第1の原則とした。「朗読」には「読み聞かせ」の態度が強かったからだ。いったん聞き手をゼロにすることで、読み手自身が自らの読みの聞き手となり理解者となることを期待した。のちに「聞き手は有って無い」とも言った。この方法は今も有効だ。 at 07/07 09:00

WATANABE_tomo / 渡辺知明
三谷幸喜さんが「桜の園」を上演するときの話がある。わたしのドラマリーディングはこの2か月後だ。「喜劇」というものを読みだけでどう実現できるか。自分でも楽しみだ。翻訳は、おもに堀江新二氏の訳『さくらんぼ畑』(2011群像社)を使用する。
http://t.co/Y2O2MtGO
 at 07/07 00:06
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2012年07月07日

2012年07月06日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
だれにでも肉体的能力として自然な発声の機能が備わっているのに、自分の声を出せる人が少ない。野口三千三の考える「体操」からいうと、朗読のための発声・発音も、あらゆる人にとってつまり人間にとって基本となる能力なのだ。わたしは、『朗読の教科書』を書くことによってそう考えるようになった。 at 07/06 22:12

WATANABE_tomo / 渡辺知明
『朗読の教科書』で示した2音3音区切りのアクセント原理ならば、アクセント辞典が不要になるかもしれない。あらゆるアクセントが二者択一ないしは、三者択一で検討できるからだ。全くの初心者でない限りどっちが正しいか、美しいかの判断はつくだろう。しかも文のイントネーション原理にもなるのだ。 at 07/06 07:21

WATANABE_tomo / 渡辺知明
武者小路実篤「友情」を40年ぶりに読み返した。夏目漱石「こころ」のアンチテーゼとなる作品だろう。そんな指摘は文学研究者がしているのだろう。朗読劇にしたらおもしろいのは、後半の杉子と大宮との書簡のやりとりだ。こういう形式の作品はドラマにするのでなく声で表現するしかないものである。 at 07/06 07:11

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読劇というと、どうして小中学校の学芸会のような感じがするのか。「朗読」の概念には、マイナスの評価からプラスの評価まで大きな幅がある。「政治家は原稿を朗読する」はマイナス、「朗読が心に響く」はプラスだ。プラスの評価に含まれる要素とは、表現性、個人性、責任性、自主性、積極性などか。 at 07/06 06:55

WATANABE_tomo / 渡辺知明
表現よみオーの会9月2日のドラマリーディング公演。チェーホフ『さくらんぼ畑(桜の園)』の台本作成のため参照する日本語訳の数々―湯浅芳子、神西清、佐々木彰、小田島雄志、牧原純、松下裕、小野理子、堀江新二。ロシア語は読めないが、これらの比較検討で自分のチェーホフの読みかたができる。 at 07/06 06:47

WATANABE_tomo / 渡辺知明
かつて『朗読の教科書』の必要性など私自身考えていなかった。発声・発音、アクセント、イントネーション、プロミネンスなどの技術は常識だと思っていた。だが、それはまちがいだった。朗読理論の基礎から立て直しをした。その先に進んで、文の組立や文学作品の構造などにも踏み込まざるを得なかった。 at 07/06 06:33
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2012年07月06日

2012年07月05日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
今、チェーホフ「桜の園」の日本語訳を読み比べている。訳が変わるごとに1つ1つの台詞がまったくちがったニュアンスを帯びてくる。朗読の表現の価値は文体の読み分けにある。翻訳の違う作品が文体の違いによって内容まで変わってしまうという自覚がなければ、文学作品をわざわざ声にする意味はない。 at 07/05 22:12

WATANABE_tomo / 渡辺知明
音楽といってもジャンルは広い。ジャズ、クラシック、歌謡曲、民謡などの全体が音楽である。では、朗読はどうか。実に漠然としている。特定のジャンルが朗読と思われている。音声訳、アナウンス、ナレーション、読み聞かせなどが典型的だ。だが表現としての朗読がある。わたしはそれを表現よみと呼ぶ。 at 07/05 22:10
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2012年07月05日

2012年07月04日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
宇野重吉の『桜の園』論に書いている。チェーホフがあえて「喜劇」と銘打ったのはめそめそした芝居にさせない予防線ではないかという意味である。朗読でも同様の注意が必要だろう。たとえば「蜘蛛の糸」は「説教節・蜘蛛の糸」とでもしたらどうか。その語り口が生かされる朗読が生まれるかもしれない。 at 07/04 11:11

WATANABE_tomo / 渡辺知明
力のある朗読をするコツは単純なことである。「上体が沈んだときに声を出す。上体が伸び上がるときには声を出さない」。これだけである。ところが、多くの人たちが上体を伸び上げて読むから声が上ずって軽くなる。しかも、そのときのアクセントは、ウラ声がかりのひ弱な高低アクセントになってしまう。 at 07/04 10:18

WATANABE_tomo / 渡辺知明
作品の内容をとらえた朗読をするためには、拙著『朗読の教科書』でとりあげた記号づけが有効だ。黙読の段階から記号をつけながら読むのだ。ただし、すべての記号をつけるわけではない。その人にとって、その部分で意識にのぼった点を記しておくのである。目的も意図もなく記号をつけても意味がない。 at 07/04 10:13

WATANABE_tomo / 渡辺知明
チェーホフ『さくらんぼ畑』のアクセントとイントネーションが問題だ。宇野重吉の解説によるとチェーホフもイントネーションにこだわったそうだ。2音3音区切りのアクセントを片仮名で示すと「さク‐らんボ‐バたけ」となる。しかも「さク」のクは上がる音だ。「さくらんぼの」という修飾語が強まる。 at 07/04 09:40

WATANABE_tomo / 渡辺知明
チェーホフ(堀江新二訳)『さくらんぼ畑』(2011群像社)について、Amazonにおもしろい批評があった。わたしも2012年9月2日(日)のドラマリーディングに使うテキストなので、自分の見解をレビューとして書いた。戯曲の黙読と音読の対立か。http://t.co/tzCHCd2X at 07/04 07:43

WATANABE_tomo / 渡辺知明
9月2日(日)表現よみオーの会で上演するドラマリーディング『さくらんぼ畑』(群像社2011堀江新二氏による『桜の園』新訳)の台本作成に入った。参考書は、宇野重吉『チェーホフの『桜の園』について』(麦秋社1978)である。朗読劇ではない。舞台以上のリアルな人物を声だけで表現したい。 at 07/04 06:50

WATANABE_tomo / 渡辺知明
わたしが表現よみの作品を公開しているメインのページは「表現よみ図書館」である。「朗読から表現よみへ」というスローガンで10年以上公開を続けている。太宰治、梶井基次郎、中島敦、夏目漱石などを中心である。他に「声でよむ名作本」シリーズがある。http://t.co/I2mdoYoj at 07/04 05:50
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2012年07月04日

2012年07月03日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の声が世界を現実化するとき、それは表現よみといえる。音声訳では声は文字の代理である。ナレーションでは声は画像の添え物である。アナウンスの声は情報の伝達のための手段だ。ところが、発話者が「青い空」と口にしたとたんに、聴き手の目の前にそのものの幻想的な世界が創造されてしまうのだ。 at 07/03 19:51

WATANABE_tomo / 渡辺知明
野口三千三『からだに貞く』を読んでいると、メルロ=ポンティが哲学として語ろうとしたことをからだを使って実践的に追求していたのだという思いがわいてくる。とくに、からだの動きそのものがモノ・コトを知ることだという点は、パロールとしての朗読の行為が作品理解そのものであることに通じる。 at 07/03 00:14
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2012年07月03日

2012年07月02日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
「命がけの読み」を考えている。腹式呼吸を練習して朗読するのでなく、腹式発声で一声ごとの表現に命をかけるのだ。口先で読むのではなく、からだ全体を使うなら、その声には言葉と思いとの一体化が生まれる。そのとき、作品の世界に「はいる→なりきる」を超えて、作品が読み手に「のりうつる」のだ。 at 07/02 23:59

WATANABE_tomo / 渡辺知明
民謡の旋律というものは伝統の中で確定してきたものであろう。全国どこの民謡歌手が歌っても共通である。それでいて、各地方の色彩と歌手の個性が浮き出てくる。朗読もそうありたいのだが、歴史の浅さから、まだ旋律はもちろんリズムさえ定まらずにいる。いや、それが意識されない段階なのだと言える。 at 07/02 05:27
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2012年07月02日

2012年07月01日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読することばが意味を持って立ち上がるようすをメルロ=ポンティはこう語る。「私が語を知ってそれを発音するためには、その語を私の心に表象する必要はなく、その語の分節的および音声的本質を私の身体の可能な使用法の一つ、転調の一つとして所有すればそれで十分なのだ。」声が世界を生み出す。 at 07/01 17:52

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読というものは不思議なもので、変に読み慣れている読み方からは少しも感動が得られないことがある。それに対して、アクセントのまちがいがあっても、たどたどしくても、そこから作品の世界が浮かぶような読み方もある。読み手がことばを殺してしまう読み方と、ことばを生かす読み方のちがいだろう。 at 07/01 17:42
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2012年07月01日

2012年06月30日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
わたしが刊行する「はなしがい通信」でとりあげた竹内敏晴『話すということ―朗読源論の試み』の書評に朗読の基本が書かれていた。自分で読み直して、朗読の本質に触れるいい内容だと思った。また、今では竹内敏晴へのメルロ=ポンティの影響がよく分かる。http://t.co/uADrGmyU at 06/30 21:31

WATANABE_tomo / 渡辺知明
はなしがい通信2008年版(PDF)をアップした。『武満徹エッセイ選―言葉の海へ』を扱った号の中で、拙著『朗読の教科書』で書いたリズム論の原点があることを発見した。4年前のことである。2音3音の日本語リズムもこのころから考えていたのだ。
http://t.co/MLTLr9gb
 at 06/30 19:29

WATANABE_tomo / 渡辺知明
コトバの4原則は朗読の表現にも応用できる。(1)正しく―はっきり、(2)わかりやすく―すっきり、(3)切れ味よく―くっきり、(4)ふさわしく―ぴったり。とくに重要なのが「ふさわしく」である。その作品はだれに何を何のために声に表現しているのか。つまり、「語り手」の設定が根本になる。 at 06/30 17:57

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の聴き方というのはじつはむずかしいものである。まず、大抵の人は文字にも置き換えることのできる音韻レベルの音を聴き取ろうとする。朗読の魅力はそこにはない。音楽を聴くときに楽譜の音符を聞こうとする人は居ない。音符の周りにふくらみを持った響きがまつわりついている。それを聞くのだ。 at 06/30 17:50

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朝の読書にはぜひ音読を取り入れたい。各人個別に自分の本を声を出して読むのだ。読み声はつぶやきの声かノド声である。これでずいぶん声は小さくなる。そして、全員が両耳をふさいで内側から響く自分の声を聴く。自分の声を自分で聴いて自分で考える能力が育つ。その根拠は『朗読の教科書』に書いた。 at 06/30 08:37

WATANABE_tomo / 渡辺知明
拙著『朗読の教科書』(2012)に書いた朗読論は、ずいぶん以前から語っていたことだ。2005年から2007年の「はなしがい通信」をPDFで公開している。あらためて自分の朗読論・音声表現論を学び直している。コトバと子どもの教育がテーマなのだ。http://t.co/EVB7mJzL at 06/30 08:29

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読は個人の表現である。群読の場合でも、声をそろえて同じ文を読むことはありえない。声をそろえられるが、イメージも感情も個々人のものだからそろうわけがない。それぞれが自分の表現を捨てて声だけを合わせなければならなくなる。戦時中に流行った群読はそのような人間を作るためのものであった。 at 06/30 00:15
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2012年06月30日

2012年06月29日に渡辺知明が語る

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学校の始業前の時間のボランティアによる読み聞かせをやめたらどうか。気に沿わない読みであっても、子どもたちは沈黙を強いられる。1人ひとりが好きな本を読んだらいい。しかも黙読ではない。つぶやきよみかノドよみによる音読だ。拙著『朗読の教科書』には1人で本がよめるようになる方法を書いた。 at 06/29 20:50

WATANABE_tomo / 渡辺知明
「朗読などわざわざ学ぶことはない」という意見を聞いた。いきなり表現よみを学んだらどうか。拙著『朗読の教科書』では、音読→朗読→表現よみという3段階を示した。文字を読む、意味を読む、作品を読むという段階に対応している。問題は文学作品の読みだ。http://t.co/nPfbihM7 at 06/29 20:27

WATANABE_tomo / 渡辺知明
先日テレビで大林宣彦監督『転校生』(1982)を見たのをきっかけに、2003年1月に書いた「はなしがい通信」を思い出した。同じ原作の山中恒『おれがあいつであいつがおれで』をテレビデラマにしたものの批評である。からだと心との問題がおもしろい。http://t.co/3D9tcVfZ at 06/29 07:12
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2012年06月29日

2012年06月28日に渡辺知明が語る

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声に出して読めば音読だ。だれもが始められる。朗読とは文学作品を作品の感情と読み手の感情とを一体化させて読むものだ。声とからだは一体だから、からだ全体の動きを生かして読みながら、作品の世界を表現する。そして、「はいる→なりきる→のりうつる」となったとき、その読みは表現よみになる。 at 06/28 06:52

WATANABE_tomo / 渡辺知明
文部科学省後援・第4回青空文庫朗読の輪コンテスト録音審査作品募集中8月8日(水)締切。3分以内の録音作品送付。9月17日(月/祭)東京・高円寺2の本選に30名進出。応募料3150円。小中高生と70歳以上の方は応募料無料。本選入場料300円。http://t.co/jrFfulD5 at 06/28 06:42
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2012年06月28日

2012年06月27日に渡辺知明が語る

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放送におけるアナウンサーの話し方は一つの型ができている。しかし、講義形式の話し方というものはほとんどできていない。というよりも、そもそも日本では公の場での話し方というものが訓連されていないのだろう。『朗読の教科書』の「語り口」や記号づけの方法は話しことばの研究方法にも応用できる。 at 06/27 09:06

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の表現の価値が転換する目安はどこにあるだろうか。その一つは、読み手が楽しむ朗読から聞き手が楽しめる朗読への転換である。作品を声にすることは初歩の表現なのである。だから初心者でも味わえるのだ。しかし、聞き手が楽しめるとなるとハードルは高くなる。聞き手が聞く位置は at 06/27 00:08
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