2009年08月05日

朗読の演出と朗読のよみかた―阿刀田高の疑問

 2009年1月11日の日経新聞の「半歩遅れの読書術」に、阿刀田高さんが、「朗読で知る菊池寛の魅力」という文章を書いている。

 その終わりの部分に注目した。朗読の演出で知られている鴨下信一さんとの朗読用の作品の評価の違いである。次のように書いている。
 「演出家の鴨下さんと小説家の私とでは舞台に乗せる作品についての判断が微妙に異なる。」
「私は小説としてよいかどうかを考える。(中略)鴨下さんは、それを無視するわけではないが、舞台上のパフォーマンスがどれだけ観客を楽しませ、感動させるかを計る。」

 わたしは次のように考えている。つまり、鴨下さんは小説を使って舞台上の演出をしているわけである。だから、小説そのものの表現をしているのではなくて、舞台上でいかに演じられるかを求めているのであろう。それに対して、阿刀田さんは小説が小説として、そのものの表現効果を上げるような朗読を求めているのだろう。

 つまり、鴨下さんの演出と阿刀田さんの求めている小説の味わいというものとは表現のレベルの違うものだと思われる。現在、行われている多くの朗読は、表現性の少ない地味なものである。そこから生まれた不満解消の一つの道が、鴨下さんの行っているような演劇的な小説の舞台化である。それは、白石加代子の舞台に代表されるものである。

 最後に、阿刀田さんは次のように書いている。
「このちがいはもう少し体験を積んで、あらためて読書と朗読の比較として語るべき重要なテーマなのだろうと思っている。」

 阿刀田さんが朗読するべき作品を読むときに求めているものと、結果として見せられたものにとの評価の違いがこのようなテーマを思い出させたのだと思われる。
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2009年07月30日

森鴎外の朗読批評論「朗読法についての争い」

 先日、知人からもらったコピーを発見した。森鴎外の朗読批評論である。文語体で読みにくいので現代語に訳してみた。ここに紹介をする。副題も小見出しも、わたしがつけたものである。内容については「論文の紹介」を参照のこと。

◎朗読法についての争い
――朗読という概念のいろいろ
森鴎外
(渡辺知明訳)

※論文の紹介
 明治二十四年(1891)三月二十五日発行の雑誌『棚草紙』第十八号に「朗読法につきての争ひ」と題して、「森林太郎」の署名で掲載されて、のち『月草』に収められた。朗読に関する重要な発言を取り出して、渡辺が読みやすく書き直した。小見出しも渡辺がつけた。原文は『鴎外全集』第二十二巻(1973第一刷、1988第二刷。岩波書店)に収録されている。

●二人の論争者
 関根、饗庭の二氏が、東京専門学校で和文朗読法の科目を設けようというと、とたんに読売新聞の紙上で一場の筆戦が始まった。科目を設けることを可とするのは、「東京専門学校文学科一学生」と名乗る人で、これを不可とするのは、日就社員の一人だとかいう「A生」である。
 「一学生」は朗読法の本質については別に説明しない。ただ、「専門学校の朗読法はどんな方法で行うか、夢にも知らない」というだけである。二氏の争いを取り上げた新聞の雑報でも、饗庭氏が国民之友に書いたものと同じような歴史上の例を引いただけである。そして、「朗読法とはいかなるものかということについては、我が国ではいまだ読み方とか朗読法とかいう一定の規則立ったものがあるとは聞かない。東京専門学校の一科目とした結果がどうであるかによっては、明治の文学界に一つの新模様を出すことになる」とあるだけだ。「A生」もまた朗読法の本質には説を及ぼさずに、「それが一変して芝居道の本読みとなり、さらに一変すると、卑猥な声色遣いになってしまう」とだけ言っている。

●ことばの訓練の四段階
 そもそも人の語ることばには美醜があって、醜いものを美しくするには方法がある。試みにゲーテの論をもとに解説すれば、第一は、地方の訛《なま》りを捨てることである。第二は、発音を正しくすること。第三は、文の抑揚を表現して情にながされないように読むこと。第四は、己《おのれ》を文中の人物の地位に置いて、文中に表現された情を思うままに発動させて読むことである。このような段階を経て修行を積んだ人は、日常のことばまで、苦労せずに美しくすることができる。
 最後に二段階では、その区別は量的なちがいによって生じるといえる。およそ、ものを読むとき、音の抑揚が少しもないものを純粋な素読という。しかし、抑揚をつけまいと思っても、自然に多少の抑揚はつくものである。おじいさんが新聞を読むときのような調子がつくのも自然の勢いである。すでに、音の抑揚がついてしまうものならば、それに正不正があって、不正なものを捨てて、正しい抑揚を研究しなければならない。
 さて、抑揚のなかでも、一語における抑揚(アクセント)は、個人の発音において正すべきものである。たとえば、くもという語では、
 
●レシテーションとデクラメーション
 さて、自分の読む文章を他人のものと思いなして、他人の情を汲みとるような心となるときには、情が弱くなるので、読み手が情に制される心配はない。
 このような読み方は、西洋文明の語ではいわば、三人称のことを言う心で読むべきで、我がことでもないし、あなたのことでもなく、「彼」のことを言う心で読むべきである。これを、レシテーション Recitation という。もし、この情が強くなるときには、ついに言語を左右することになる。文章を読む人が、我を忘れて、身を作中の人物の地位に置いて、情の動くに任せてことばを発すること、たとえば、俳優が舞台で演ずるような場合がこれである。
 これは、デクラメーション Decramation という。レシテーションの三人称は、デクラメーションでは一人称になって、彼は我となる。要するに、レシテーションは進むとデクラメーションになるものなので、私はこの区別を量的なものであると呼んだのである。
 A生は、専門学校の朗読法が一変して芝居道の「本読み」のようになることを恐れ、また、さらに声色遣いのようになるのを憂えているという。朗読法とはレシテーションである。本読みもまたレシテーションである。朗読法はとりもなおさず本読みだが、朗読法が本読みとなるには一変する必要もない。
 A生は、芝居道の「本読み」というものを卑しむべきもののように言うが、それは芝居道が地位の低い者の仕事だとする日本人の常識を脱していないからである。朗読法、そのものは美しく読む方法であって、ほかの行住坐臥を美しくすることと同じで、文明開化の結果であるから、劇の脚本について行うのにも何の不思議はない。

●声色とその模倣のいやらしさ
 A生はまた、「専門学校の朗読法を再編すると、声色使いのようになる」と危ぶんでいる。朗読法は本読みへと変わらざるをえないが、それはデクラメーションである。声色使いというのはデクラメーションの真似である。A生は声色使いを、下卑たものだと罵るのだが、そのゆえんは、朗読法でもなく、本読みでもなく、デクラメーションでもなく、模倣だということから生ずるのである。
 一例をあげるならば、脚本を公衆の前で読むことがあれば、これはレシテーションではなく、朗読でもなく、本読みでもない。これは下卑たものではない。この脚本が興行されて、団十郎や菊五郎などの俳優が、作中の人物に扮して、せりふを語るならば、これはディクテーションである。これは下卑たことではない。ここに声色使いがある。そのわざとするところは、人物に扮した団十郎や菊五郎の口吻を真似て、人の喝采をえようとする。落語家が自戯 Selbstironie の心で、声色使いの卑しさをあざけり、自分のやりかたで人の声を表現するというのもまたその意味である。
 模倣の卑しさは、朗読法とデクラメーションとが卑しいということの証明ではない。模倣者のことを憂えて、その原因を断とうとするなら、卑しい守銭奴がいるといって貨殖家を罵ったり、偽君子がいるといって君子を笑うことになる。

●朗読とテキストの種類
 私は朗読のテキストについて論じたい。テキストについてA生は「ヨーロッパの朗読法はおもに戯曲、あるいは戯曲的な文章を基本としている」というだけである。読売の記者もまた、古人が源氏物語の一段を朗読したこと、専門学校では…… 
 A生は「ヨーロッパの朗読はただ単に戯曲のみを基本とするのではなく、おもにオレーション、あるいは勇壮なる戯曲をとることはをすすめている。
 A生はついでに、朗読材料に適したものを示そうといって、「日本外史」にても可なり、「盛衰記」にても可なり、「史記」にても可なり、「太平記」にても可なりといい、「源氏物語」、近松の浄瑠璃などは優れているし艶もあるが、朗読の材料には適していないと決めている。

●朗読のためのテキスト
 私が思うには、素読の段階までは、文字に書いてあるもののすべてが材料となるけれども、レシテーション、つまり専門学校のいわゆる朗読法になると、情に関するものでなければならない。
 情には二つあって、一つは実感、一つは審美的な感情である。実感の区域に属する材料は、おもにA生が尊んでいるが、古烈士の談、昔の雄弁家の演説などである。この材料の朗読は、能弁法 Rhetorik レトリックにかんするものだから、能弁学会などに委ねてよい。
 審美的な感情に属す材料は専門学校がとりあげるもので、抒情詩、叙事詩、小説(源氏物語)、戯曲(近松の浄瑠璃)などである。
 
●一人称の作品&三人称の作品
 私は先に朗読法、すなわちレシテーションとデクラメーションとの関係を説いてそのちがいを明確にした。だが、デクラメーションの材料となるのは戯曲だけである。戯曲は、文法家がいう三人称を交えずに書かれた唯一の詩の形式で、デクラメーションの方法とは三人称を交えたものではないからである。だから、演説、抒情詩、叙事詩、小説などはみな、レシテーションまでには適しているが、デクラメーションには適さないものである。感情的に最極点までは亢進することができないものだ。専門学校では、生徒に教えるには、言語の抑揚の間に情を表現することであるから、情を表現する法を極端まで発揮するのに適した戯曲を練習の材料にすることは当然である。
以上
posted by 渡辺知明 at 10:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 朗読批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする