●「朗読」の創造性
こがわ氏は結論的にこう述べている。
「朗読」が原著作物のの「複製」でないとすれば公衆送信は、原著作物それ自体の公衆送信にはあたらない。
「公衆送信」という用語の意味は、インターネットで複数の人たちに見せたり聞かせたりすることである。「朗読」の場合には、ネットで録音を聞かせることになる。
ここでも問題は文字メディアと音声メディアのちがいである。音楽の場合、「複製」も音声メディアであるし、映画の「複製」にもメディアの変化はない。ところが、「朗読」は、原著作物をメディア変換している。それは創造的な行為である。
福井健策『著作権とは何か』(2005集英社新書)はアメリカの著作権問題の事例として『プリティ・ウーマン』事件を取り上げている。この事件では、原曲をもとに新曲を売り出したことが原著作権の侵害かどうかが問われた。結局、新曲の創造性が「フェアユース」として認められた。これは同一の音声メディアにおける創造性の確認である。それに比べたら、文字メディアの「原著作」に対して、「朗読」の音声メディアでの創造性はずっと大きなものである。
●「朗読」と公衆送信
著作権法2条1項18号には、「公衆への伝達」は「口述」の概念規定で「朗読その他の方法による著作物を口頭で伝達すること」とある。ならば、「非営利・無料・無報酬」による利用者の「口述」「上演」も著作権の侵害に当たらない。
こがわ氏はこれについてコメントする。「朗読」を「複製」ではなく「口述」とした場合、「口頭で伝達する」が必ずしも対面、つまり一対一には限らないといえる、ならば「公衆への伝達」は認められる。つまり、インターネットでの「公衆送信」も「伝達」だといえることになる。
「朗読と著作権(3)」でのこがわ氏の結論は次のようになる。
「口述」もしくは「上演」された音声を聴衆に伝達する権利についても、著作権法38条1項の制限(注=非営利・無料・無報酬による著作権の制限)が及ぶのである。
以上の点から、わたしの解釈はつぎの2点になる。
(1)著作物性のない朗読(音声訳)でも「複製」ではなく「口述」と考えると聴衆への伝達も可能になる。ということは、現在、聴覚障害者のみに限定されて貸出されている「録音図書」も健常者に広げられてもよいだろう。
(2)より芸術性の高い著作物性をもつ朗読(朗読・表現よみ)については、もっともっと朗読者自身によってさまざまなかたちで自由に公開してもよいのだ。(了)(初公開=2005年8月10日)