2007年10月02日

「朗読」と著作権の問題(6/6)

 今回は、こがわ法律事務所webnotesの「朗読と著作権(3)」についてのわたしのコメントである。(こがわ氏の解釈をさらにわたしなりに解釈している。ここに示した見解の責任はすべてわたしにある)
 
●「朗読」の創造性
 こがわ氏は結論的にこう述べている。
 「朗読」が原著作物のの「複製」でないとすれば公衆送信は、原著作物それ自体の公衆送信にはあたらない。

 「公衆送信」という用語の意味は、インターネットで複数の人たちに見せたり聞かせたりすることである。「朗読」の場合には、ネットで録音を聞かせることになる。

 ここでも問題は文字メディアと音声メディアのちがいである。音楽の場合、「複製」も音声メディアであるし、映画の「複製」にもメディアの変化はない。ところが、「朗読」は、原著作物をメディア変換している。それは創造的な行為である。

 福井健策『著作権とは何か』(2005集英社新書)はアメリカの著作権問題の事例として『プリティ・ウーマン』事件を取り上げている。この事件では、原曲をもとに新曲を売り出したことが原著作権の侵害かどうかが問われた。結局、新曲の創造性が「フェアユース」として認められた。これは同一の音声メディアにおける創造性の確認である。それに比べたら、文字メディアの「原著作」に対して、「朗読」の音声メディアでの創造性はずっと大きなものである。

●「朗読」と公衆送信
 著作権法2条1項18号には、「公衆への伝達」は「口述」の概念規定で「朗読その他の方法による著作物を口頭で伝達すること」とある。ならば、「非営利・無料・無報酬」による利用者の「口述」「上演」も著作権の侵害に当たらない。
 こがわ氏はこれについてコメントする。「朗読」を「複製」ではなく「口述」とした場合、「口頭で伝達する」が必ずしも対面、つまり一対一には限らないといえる、ならば「公衆への伝達」は認められる。つまり、インターネットでの「公衆送信」も「伝達」だといえることになる。

 「朗読と著作権(3)」でのこがわ氏の結論は次のようになる。
 「口述」もしくは「上演」された音声を聴衆に伝達する権利についても、著作権法38条1項の制限(注=非営利・無料・無報酬による著作権の制限)が及ぶのである。

 以上の点から、わたしの解釈はつぎの2点になる。
 (1)著作物性のない朗読(音声訳)でも「複製」ではなく「口述」と考えると聴衆への伝達も可能になる。ということは、現在、聴覚障害者のみに限定されて貸出されている「録音図書」も健常者に広げられてもよいだろう。
 (2)より芸術性の高い著作物性をもつ朗読(朗読・表現よみ)については、もっともっと朗読者自身によってさまざまなかたちで自由に公開してもよいのだ。(了)(初公開=2005年8月10日)
ラベル:朗読 著作権
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2007年09月15日

「朗読」と著作権の問題(5/6)

 こがわ法律事務所Webnotesで「朗読と著作権」全4回の記事が掲載された。法律の専門家の方がこの問題について書いてくださったのがじつにありがたい。わたしも下書きを書いて準備していた。そこで抱いた疑問の多くは解決した。
 まだ書くことがあるかどうか、まずは、こがわ氏の記事から学びながら、コメントをしたい。そのあとで、発言したいことがあればまた書きこもうと思う。

 今回は「朗読と著作権(2)」についてのコメントである。(こがわ氏の解釈をさらにわたしなりに解釈している。ここに示した見解の責任はすべてわたしにある)
 
●「朗読」の二種類と「口述権」

 こがわ氏は「朗読」を二つに分けている。a単なる口述としての朗読、b創作性をもつ朗読、である。そして、bは「上演」の権利を適用すべきだろうし、aは「原著と独立した著作物性を取得しない朗読」であるから、あえて言うなら「口述」の対象だという。にもかかわらず、それが原著作物の「複製」であるとはいえない。その理由として、「朗読を聞き通すのは時間と集中力が要求されるので、朗読の録音を本の代わりにする」のはムリだという。

 わたしは「朗読」の特殊性は、情報のメディア間の移行にあると考える。つまり、著作物は文字メディアであるが、朗読は音声メディアである。「複製」にはメディアの移行はない。書物のコピーは文字メディアから文字メディア、音楽の「録音」も音声メディアから音声メディアである。だが、朗読では、文字メディア→(よみ手の介在)→音声メディアという変更がある。その中間によみ手が介在する。これは「複製」とはいえない。わたしはどのようなよみであっても、メディアの変更に介在するよみ手は表現者だと考えるのだ。

 はたして著作物の「複製」といえるような「朗読」があるか。これまでの法律の解釈では、「朗読」そのものの意味がアイマイなのだ。たとえ、「朗読」のうちでもっとも表現性の少ない「音訳(音声訳)」を著作物の「複製」だといっても、メディアの変更があるのだからそれはムリだ。また、「音訳」と「朗読」との区別はできない。明確さを求める法律的な区別である。近ごろの音訳は、以前のように句読点や表記記号までをよみあげるようなものではない。より表現性ないし創造性のあるよみに移っている。

 こがわ氏の結論は次のようなものだ。
 「朗読」は著作物の「複製」ではなくて「口述」の問題として考えるべきだ。(20050802初公開=つづく)
ラベル:朗読 著作権 延長
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2007年09月06日

「朗読」と著作権の問題(4/6)

●著作権保護の大前提

 著作権とは何か、なぜ著作権が保護されるべきかという根本問題があります。これには二つの大前提があります。一つは社会的な問題、もう一つは個人的な問題です。この両者の利益を保護するために法的な調整が必要なのです。
 第1は、文化の発展のため、第2は、著作権者の権利の保護です。

 わたしは、著作物の一部の「朗読」をインターネットで公開することが、はたして著作権の侵害になるのかどうか疑問をいだいています。結論としては、わたしの行為は文化の発展になるし、著作権者にとっても利益になると思うのです。

 まず、第1に、著作権による社会の発展という問題です。朗読についても、社会の発展のために、著作物が読まれることを期待したいと思います。福井健策『著作権とは何か』(集英社新書)で、著作権の大前提を「はじめに」で「芸術文化活動が活発に行われるための土壌を作ることだ」(9ページ)としています。

 また、あとがきでも「著作権については近時、従来の文化振興という側面のほか、産業を保護という側面が重要になってきたという指摘もありますが、本書ではあえて「豊かで多様な文化の創造と、人々のそれへのアクセスをどう守るか」という視点にこだわりぬいてみました。」(209ページ)とあります。

 つまり、著作権の問題は、今後の朗読をはじめとする言語の文化問題にとって、いろいろな意味があるということです。わたしは著作物について自由に朗読をできるようにしたいと思うのですが、それは決して「産業を保護」を侵すものではありません。それどころか、むしろ出版産業の発展にもつながるはずです。

●「インセンティブの付与」と「フェアユース」

 第2に、著作権所有者の権利が守られるという原則です。その考えのひとつは「インセンティブの付与」です。他人が作ったものの真似をすることで、人々が創作意欲をなくしてしまうことを避けるためというのです。

 ところが、今、著作権の保護期間50年を70年にするという動きがあるそうです。青空文庫の「青空の行方」でも、せっかくこれまで公開してきた太宰治などの著作の公開がどうなるか危惧しています。著作者の没後50年もたったら著作権者は当人ではない。そのようにして保障された著作権が、あらたに創造的な活動の刺激になるかどうか、たしかに問題になることです。

 それに対して、著作の利用者の側の「フェアユース」という考え方があります。「適正使用」とでも訳したらよいのでしょう。福井健策『著作権とは何か』(集英社新書)で紹介された『プリティ・ウーマン』事件(169ページ)で認められました。詳しくは省略しますが、著作物の利用の自由が広がりと「文化振興」という公共の利益を保証するものです。

 福井氏の著書では「フェアユース」の成立する条件として、次の4項目を挙げています。(171ページ)
 A「利用の目的と特徴」
 B「利用される作品の性質」
 C「利用された部分の量・質」
 D「オリジナル作品に市場でダメージを与えないか」

 わたしがいま、現代の著作を「朗読」してインターネットで公開していることについては、Dについてはまったく問題になりません。刊行された著作の朗読がオリジナル作品の販売を減らすようなことはありません。逆に、インターネットで著作の一部が読みあげられることによって、著作の宣伝効果が上がるというプラスの効果があります。実際に、わたしが読みあげた著作の販売部数が上がったという実例があります。また、わたしのような活動をする人が増えることによって、朗読の文化が盛んになり、読書をする人が広がり、著作物の販売も盛んになることでしょう。(初公開07.7.27/つづく)

※ 前回、紹介した法律の専門家の方が、さらにくわしく「朗読と著作権」について発言をつづけてくださるとのことです。今後の展開に期待します。
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2007年08月31日

「朗読」と著作権の問題(3/6)

●著作権法第38条の「非営利・無料・不報酬」の原則
 わたしの「Blog表現よみ作品集」を訪問した法律家の方が次のように書いてくださった。

 「著作権法38条は,公表済著作物について,営利を目的としない上演,口述などを認めていますから,ファイルが無償で公開され,かつ朗読者が報酬を受けない限りは,朗読の公開は著作権を侵害するものではなく,またそのようにして適法に公開された朗読を,個人が私的に使用する限りにおいて朗読ファイルをダウンロードしても著作権侵害は生じないと考えられます。」(こがわ法律事務所のwebnotes「朗読とpodcast」)

 わたしも著作権法第38条はうろ覚えであるが聞いていた。今回あらためてこれが有効だと思い当たった。ならば、わたしのしていることには問題はない。しかも、引用の原則も付加しているので、著作物の販売にも貢献しているはずだ。

 わたしがしていることは、現代著作について、その一部を声でよみあげて録音したものを、ネットに公開していることだ。たしかに、(1)営利が目的ではない、(2)報酬を受けてはいない、という条件は満たしている。これでわたしの問題が解決するなら、じつにうれしいことだ。

 しかし、何がなんでも、著作権の切れないものは一切よめないのだというような誤解があるのは確かだ。小説の「朗読」を公開で行う場合に、まるで戯曲の上演許可のような手続きも行われている。一部ではそれが法的な正当な方法であると思われている。また、なぜそうなったのかということも疑問だ。また、著作権の保護期間を50年から70年に延長しようという著作権法改訂の問題があることも知った。そのあたりについて、わたしが書くべきことはまだまだある。(初公開2005/07/22)(つづく)
ラベル:朗読 著作権
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2007年08月28日

「朗読」と著作権の問題(2/6)

●現代著作の「朗読」についての提案

 はじめに
 ポッドキャスティングが日本でも注目され始めています。アメリカでは2000万人以上の人口があります。音楽ばかりではなくオーディオブックと呼ばれる講演や朗読なども聴かれているそうです。今後、日本でポッドキャスティングが発展するためには問題があります。「朗読」など聴くべきソフトの少なさです。とくに現代著作が欠けています。

 わたしがケロログで「Blog表現よみ作品集」を公開しているのは、将来のポッドキャスティングの発展を見込んでのことです。多くの人たちにさまざまな作品を聴いていただきたいと思っています。最近、わたしと同じように「朗読」のファイルを公開する人たちも出てきています。

 ところが、日本では著作物の権利について堅苦しい原則があります。「没後50年を経ない著作物は読めない」という単純なものです。それは「朗読」についての正当性を欠いた解釈です。わたしはいろいろ考えることがあります。しかし、それは今後、書いていくこととして、いま行われている「朗読」の公開をすすめるための実践的な提案を示しておきます。

 「朗読」はひとつの表現行為です。著作物の「複製」ではありません。また、著作物の「口述」でもありません。著作物とは別の次元の新たな価値を生みだします。著作物の代わりになるものではありません。ですから、著作物と競合して著作物の販売を阻害することはありません。

 この考えから、没後50年を越えない作品を「朗読」公開する場合の原則を考えます。これはインターネットでの「朗読」ファイルの公開を考慮したものです。営利を目的としない朗読会などについても、一時間に満たない作品をよむ場合など、これに準じた条件が考えられるでしょう。

 大前提は、「刊行された著作の販売など著作権者の利益を侵害しない」ということです。多くの場合、著作は特定の一つの出版社から刊行されますから、その場合は下記の原則で問題ないでしょう。

 ただし、没後数十年を経て、いくつもの著作物のかたちで刊行されいる作品の場合は表示がむつかしくなります。もしも著作権管理の協会などができるなら、そこが作家と作品について刊行著作の管理をすればよいでしょう。たとえば、○○という作家の△△という作品なら、どことどこの出版社から出ているということです。そこに表示する著作物はその時点で入手可能のものとなるでしょう。

 (1)著作物の10分の1以上は読まない―長編の場合はもちろん、短編集もこの原則で行けるかと思います。詩や短い作品の場合でも、著作全体との比率では全文をよめるようにしたい。
 (2)「朗読」には著作情報を付加する―a著者名、b著作名、c出版社名、d刊行年月日、e著作物の画像(可能な場合)
 (3)録音ファイルへも情報を付加する―インターネットでの公開の場合は、できるだけ(2)の条件を録音ファイルへ付加する。あるいはファイルの出所をたどって条件を確認できるようにする。
 (4)執筆者ないし出版社への通知をする―通知を受けた出版社は通知を受けたことの旨を返信すると共に、著者へもそのことを通知する。

 以上の原則を守ることで、「朗読」をする人たちにとっては積極的に新著作を買おうという行動が生まれるし、著作者にとっても宣伝としての効果があります。もしかしたら、出版社の宣伝よりも効果的な「口コミ」として宣伝になるでしょう。また、著作物については、絶版になっているものもあります。それらを再発掘するためにも有効だと思います。(初公開2005/07/17)(つづく)
ラベル:朗読 著作権
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2007年08月27日

「朗読」と著作権の問題(1/6)

 わたしはこれまで「朗読」の著作権のあり方に疑問を持ってきた。2005年3月から音声ブログ「ケロログ」で、文学作品のよみの録音をネットに公開してきた。当時は、「朗読」のブログは少なかったが、近ごろずいぶん増えてきた。そのなかに著作権について意識することなく、さまざまな作品をネット配信する人たちもいる。そこで、そんな人たちにも読んでいただきたいと思って、2005年7月から8月に書いた文章だが、少し手を入れてアップすることにした。

 これから6回にわたって、この問題について書きたい。わたしが参考にするのは、福井健策『著作権とは何か―文化と創造のゆくえ』(2005.5.25集英社新書)である。すばらしい本だ。既成の法律の解釈を振り回すのではなく、社会の発展という一つの理想のもとで著作権の問題を検討している。わたしが示唆されたことがたくさんある。この本を片手に「朗読」と著作権について、わたしの考えを論ずることができそうである。
著作権とは何か―文化と創造のゆくえ (集英社新書)
著作権とは何か―文化と創造のゆくえ (集英社新書)福井 健策

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●「朗読」の著作権問題とは?
 現在、「朗読」の活動をしている人たちにはいろいろな不便がある。だが、多くの人たちは、仕方がないというあきらめの気持ちでしたがっている。せっかく「朗読」がブームとなっているのに、今後さらに文化として発展するためのさまたげとなっているのだ。

 たとえば、「朗読」の発表会をするときなど、著作権者に問い合わせて、許可を受けたり、ときには「著作権使用料」を支払ったりしている。これが果たして「朗読」にふさわしいやり方なのだろうか。これは戯曲の上演のやり方である。それが負担に感じられる。その結果、著作権が切れたとされる没後50年をすぎた作家の作品を選んで発表会に望むことになる。現代作家の作品が自由よめない。だから「朗読」の会には若い人たちが集まらない。「朗読」を聴く世代が高齢化することにななる。

 また、視覚障害者のための音訳(音声訳)におけるバリアがある。これまで蓄積された音声訳の録音は厖大だろう。ところが、著作権の解釈によって健常者はいっさいこれを聴くことができない。バリアフリーといわれる時代にこのありさまである。さらに、この考え方が一般の「朗読」においても慣例となっている。それが文化としての「朗読」の広がりを阻害している。

 わたしが検討したいことはいろいろある。まず、「朗読」について、これまでの著作権の理解や解釈が当てはまるのかどうか。どのような解釈が「朗読」の著作権にふさわしいのか。今、出版社やマスコミの関係者は、著作権に対してひどく臆病になっている。確固たる理解と解釈のないまま、何となく既成の観念にしたがって行動しているようだ。そのやり方が、不調の読書界の読者数をさらに減少させたり、音声ビジネスの発展をはばんでいるのではないか。「朗読」についての著作権の考え方を変えることが、出版文化を発展させ、そればかりでなく日本の言語文化を発展させる可能性もありそうだ。

 思ったよりもまえおきが長くなったのでここで止める。読者にお願いがある。ご意見、ご感想などをいただきたい。「朗読」の著作権に関心を持つ朗読の関係者、出版社で著作権に疑問を抱いている方がた、さらにポッドキャスティングの発展を考える人たちにとっては重要な問題である。この記事へのコメントなり、トラックバックなり、メールなどで、議論に加わって頂けるとありがたい。(初公開2005/07/12)(つづく)
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2007年08月25日

ネット朗読配信と著作権問題

 音声ブログによる朗読の配信が活発になっている。わたしもケロログをはじめとして配信を続けてきたが、初期の頃から著作権の問題については気にしてきた。つまり、著者の死後、50年以上経過した作品を中心に配信をしてきたのだ。

 朗読は、原則として音声訳の考えを踏襲している。つまり、「原著書の複製」という考えに準じている。だから、インターネットでの録音の配信も禁じられるのではないかと危惧する人もいる。わたしは独自の考えから、朗読は複製ではなく、原著書のメディア変換としての表現であるという立場である。また、朗読の配信は、論文の引用に準ずるかたちでインターネットでも自由にできるとも考えている。(【参考】「朗読」と著作権の問題

 ところが、近ごろは、著作権の問題をほとんど意識せずに朗読が配信されるようになりつつある。そこで、もう一度、あらためて、どのような考えから、著者の死後50年以上を経過しない作品をネットで配信するのかという考えを確認しておく必要を感じるようになった。

 というわけで、これから、以前に公開した「「朗読」と著作権の問題」のシリーズをもう一度アップすることにした。すぐに読みたい方は上のリンクから記事をご覧ください。
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2006年10月14日

「著作権保護期間延長」はダレのためか?

 2006年10月13日、東京新聞の夕刊で「著作権の保護期間―延長要請の背景」という特集があった。熟読すると、確かに「延長要請の背景」がよく分かる。

 問題にされているのは、著作権の保護期間を著作者の死後50年から70年に延長するということである。わたしは、文学作品の自由な朗読活動を進める立場から、この延長には反対をしている。

 この団体の考え方は結論は、三田誠広(著作権問題を考える創作者団体協議会議長)の発言からよくわかる。「知的財産を文化、産業の基盤とした魅力ある国に」とか、著作権の保護期間が短いことが「国家戦略の放棄」を意味するのだそうだ。たいへんなことである。

 要するに、著作権を商売の道具にしたいということである。著作権とは、そもそも、創作者が次の作品を生みだすための意欲を保障するのためのものである。だが、創作者の死後、50年も70年も保護される著作権とは、何のためのものであろうか。だれのためのものであろうか。

 著作権延長の考えの背景として、「著作者の平均寿命が延びている事実」があるからだそうだ。しかし、著作者にとって、自らの死後50年と70年とで、どれほどちがいがあるというのか。そのころ権利を持つ者は決して当人ではない。親族でもないだろう。死者をダシに金儲けをする人たちとしか考えられない。

 三田氏は著作権の延長が「創作の価値を高め」、「創作者の意欲を高め、文化芸術を振興する」ことになるという。三田氏の創作意欲は、死後20年が加わることによって、さらにどれほど高まるのだろうか。

 朗読文化にとって、自由に本をよんで公開する権利は重要だ。音楽分野でのJSRACの例がある。本をよむたびにいちいち料金を払うようなことになったら、読書ばなれの文化的傾向はますますすすむだろう。金を払わなければ声に出して本が読めないとなったら、言論の自由にまで関わってくる。
(参考=シリーズ朗読の著作権)
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2006年09月23日

著作権70年への延長に反対!―儲けたいのはダレだ?

 今朝の東京新聞(06/9/23)で、16の文化団体が合同で著作権法「改正」の要望を文化庁に申し入れたという記事を読んだ。以前から言われていたことだが、現行の50年を70年に延長したいということだ。わたしはこれには反対である。

 わたしが危惧するのは、文学作品を声に出してよむという文化をすすめるうえでの障害である。文芸作品の著作権は、現在、著者の没後、50年とされている。それで、青空文庫でも著作権の切れた作品を自由にダウンロードとしてよめるし、わたしたちも声に出してよんだ作品を自由にネットに公開している。もしも70年になると、わたしの好きな太宰治も、中島敦も、坂口安吾も、自由にならなくなる。

 著作権とは、そもそも、創造者が次の創作をする励ましとなるために、その知的権利を保障しようというものである。当人が亡くなってから、50年というのも、わたしは長いと思っている。作品発表から20年くらいでもいいと思う。それが70年となると、これは一体だれのための著作権保護だろうか。創造者の遺族のための遺産のようなものか? そうではない。著作権にからむ営利目的の産業のためだ。それはあらゆる文化を金に代えてもうけようという意図がありありである。決して、文化の発展のためではない。

 新聞の記事でとくに気になるのは、文芸家協会副理事長・三田誠広の発言である。欧米と比較して「われわれだけが二十年分の権利を剥奪されている」と書かれている。この人はいったいいつまで過去の権利で暮らそうというのか。死んでからさらに二十年の権利がほしいというのか。

 また、こんな発言もある。音楽出版社協会の代表だ。「海外の会議では、日本はいつ七十年にするのか、とつるしあげられる」。強硬突破主義の政治家は、日本の独自性を主張したが、文化の守り手を自称する人たちは、外国を自分たちの経済的な利益獲得の口実にするようだ。そして、日本の文化を破壊する。著作権の70年への延長で、いったいダレが儲かるのか、考えればよく分かる。(参考=シリーズ朗読の著作権)
posted by 渡辺知明 at 08:12| Comment(3) | TrackBack(0) | 著作権延長と朗読 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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