2007年04月25日

「はなしがい通信」245号(2006年12月)〈対話〉のある社会とは?

 このところイジメによる自殺が問題になっています。イジメの問題は日本社会の縮図です。おとなの社会の人間関係が子どもの社会にも表れているのです。さまざまな対策が議論されていますが、一時的なものでは解決しないように思われます。
 子どもたち自身の問題もあります。体力も精神力も数十年間、低下しつづけています。立ち幅跳びのできない子ども、倒れても手をつけずに顔をぶつける子ども、ボールが投げられない子どもなど、本当かと驚いてしまいます。

●先生が取るべき道
 中島義道『〈対話〉のない社会』(1997PHP新書)を読み返しました。いじめについてもずいぶん書かれていました。中島氏はいじめの対極には「思いやり」や「優しさ」の強制があるといいます。そして、その陰に「利己主義」があると言うのです。
「教室で「いじめ」らしいことが起こったとしても、先生は加害者を特定することを激しく嫌う。」
 そこには、先生自身の「利己主義」があります。
「すべての生徒を納得させようとし、すべての生徒から批判されたくないゆえに、先生は悩み苦しむ。あらゆる父兄からも教師からも、はてはマスコミからも批判されないような道を歩もうとして、先生はもだえ苦しむ。その苦悩は思慮深い外形をしているが、実は怠惰や無責任と紙一重である。」
 ここに、〈対話〉にかかわる日本社会の根本問題があります。それについては後で触れることにして、先生が取るべき道はハッキリしています。
「しかし、そんなこんなはすべて二の次なのだ。〈今ここ〉で全神経を集中させるべきこと、それは被害者を死なせないことである。」
 「被害者の発するサイン」と「目撃者の証言」を信じて行動することです。
「自分の直感と経験を頼りに断固とした行動をとり、最終的には自分が責任を引き受けるべきである。」
「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの
「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの中島 義道

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●「思いやり」と「優しさ」の罪
 中島氏が著書の中で最も強調しているのが「責任」です。「〈対話〉のない社会」とは、個人が言葉を発しない社会です。街から聞こえてくるのは、誰に話しかけているのか分からない駅のアナウンスやデパートのアナウンスです。あるいは、街角に張られた標語やスローガンです。中島氏は、これらの無責任な言葉に怒りを覚えて「戦い」を挑みます。(『うるさい日本の私』(1999新潮文庫)参照)
 いじめの一方で盛んに唱えられる「思いやり」「優しさ」についても、中島氏は批判します。すべての人に気に入られ、満足されるような発言はあり得ないというのです。ある人が「思いやり」や「優しさ」を、発揮することが、他の人びとにとっては「暴力」になることさえあるのだといいます。
 たとえば、列車内の親切なアナウンスが、眠っている人にとっての「暴力」になることもあるのです。「思いやり」や「優しさ」を語る人ほど、それに気がつかないというのです。中島氏の考えは明解です。
「すべての人を傷つけないように語ることはできない。いや、できるかもしれない。しかし、その時は真実を語ることを放棄しなければならない。」
 こう考えて次のように決意します。
「人を傷つけまいとして真実を語らないことではなく――場合によっては(とくに教室や研究室では)人を傷つけても真実を語ること、しかし責任を取ることを選んだのである。」
 「優しさ」については次のように語ります。
「最新型の「優しさ」の特徴をなすものは、他者との対立や摩擦を徹底的に避けることであり、この目的を達成するために「言葉」を避ける。ひとことで言うと、自分に異質なものとしての他者を徹底的に恐れるのである。」
 こうして育ってきた子どもたちが、どのようになって行くか、およそ見当がつきます。実際、わたしが直接に接している若い人たちは、誰もが異様におとなしく、やさしいのです。そして、口数が少ないことは共通しています。〈対話〉ができないのです。
「〈対話〉とは、各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値感にもとづいて何ごとかを語ることである。」
 〈対話〉とは、会話ではありません。お互いがやり取りしながら、お互いの違いを知ることです。ところが、日本では、お互いの「一致」や「協調」ばかりを求められます。自分固有の考えを持つような人は、ますます発言しにくくなるのが日本の社会です。それはもう精神の領域におけるファシズム(全体主義)と言えそうです。〈対話〉のないところ、〈対話〉のない社会には、進歩も発展もありません。

●〈対話〉のある社会とは?
 最後に、中島氏が「〈対話〉のある社会」として示す九箇条、これが素晴らしいのでそのまま引用しておきます。
 @私語が蔓延しておりながら発言がまったくない社会ではなく、私語がなく、素朴な「なぜ?」という疑問や「そうではない」という反論がフッと口をついて出てくる社会
 A弱者の声をおしつぶすのではなく、耳を澄まして忍耐づよくその声を聞く社会
 B漠然とした「空気」に支配されて徹底的に責任を回避する社会ではなく、あくまでも自己決定し、自己責任を取る社会
 Cアアしましょう。コウしましょうという管理標語・管理放送がほとんどなく、各人が自分の判断にもとづいて動く社会
 D紋切型・因習的・非個性的な言葉の使用は尊重されず、そうした言葉使用に対しては、「退屈だ」という声があがる社会
 E相手に勝とうとして言葉を駆使するのではなく、真実を知ろうとして言葉を駆使する社会
 F「思いやり」とか「優しさ」という美名のもとに相手を傷つけないように配慮して言葉をグイと呑み込む社会ではなく、言葉を尽くして相手と対立し、最終的には潔く責任を引き受ける社会
 G対立を避けるのではなく、何よりも対立を大切にし、そこから新しい発展を求めてゆく社会
 H他者を消し去るのではなく、他者の異質性を尊重する社会
 中島氏は、そして、こうまとめます。
 「あなたはこうした社会の実現を望まないであろうか。」
 さて、あなたはどうですか。(過去の「はなしがい通信」)
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2007年03月10日

「はなしがい通信」244号(2006年11月)考えるための作文教育

 言語理論を学んでいる読書会で、わたしは作文について書かれた一節に出会いました。注目したコトバを青字にして紹介します。
 「作文というものは文章による表現能力の訓練のために存するもので、形式的陶冶による教育の一手段にすぎないものであって、それが仮に論議的なジャンルないしスタイルのものであっても、議論の内容そのものは、そこでは元来問題ではないのである。」(戸坂潤『思想としての文学』1936)
 これは、作文には価値がないといっているのではありません。それどころか、作文教育の本質的な意味を改めて問い直すコトバなのです。
 戸坂潤(1900-1945)は哲学者です。作文教育の意義を深くとらえています。日本の哲学者の中で、これほどコトバにこだわった人はいません。今では、コトバを問題にする学者はめずらしくはありませんが、七十年も前のことなのです。プラトンやアリストテレスの時代から、哲学者はコトバというものにこだわってきました。そもそも哲学とは、ものごとを根本から考えることです。考えることとコトバのはたらきとは深い関係があるのです。

●人間・考え・コトバ
 「人間はコトバを使って考える」というと、「いや、そればかりじゃないよ」という人がいます。たしかに、考える手段はいろいろです。画家は線と形と色で、彫刻家は体積や容量で、ダンサーは体で考えます。つまり、考えるためには、「考え」の乗り物となる手段が必要なのです。それらの手段の中で、人間ならだれでも使えるもっとも手近な手段がコトバです。コトバのはたらきは、@話し、A聞き、B読み、C書き、と四つあります。
 もともとコトバは音声ですから、「話し・聞き」のやりとりが基本です。だれかが話したコトバを別のだれかが聞いて、人から人へと考えが伝わります。頭に浮かんだ観念がコトバと結びついて「考え」になります。本を読んだり映画を見て感じたことについて、人と話をすると自分の考えがはっきりするのも、コトバが使われているからです。さらに「読み・書き」となると、文字を使ってもっと厳密に考えることができます。

●作文教育の考え方
 現在、学校では、どのような作文教育が行われているでしょうか。わたしが知っているのは次の二つです。
 @お手本とする文章を写す――昔から行われている作文教育法です。名文といわれる文章をそのまま書き写したり、それを下敷きとして文章を書くような教育方法です。
 A出された題について書く――題名や「○○について」などとテーマを出して書かせるものです。学校では「行事作文」などと呼ばれています。旅行に行けば旅行のこと、運動会があれば運動会のこと、といった具合です。
 どちらも、作文を書かせるきっかけにはなりますが、どのように書けばよいのかという指導がありません。
 私自身、小中高と作文の書き方というものを教わった覚えがありません。わたしが文章を書けるようになったのは、大学に入学してから意識的に日記をつけたのがきっかけです。高校のときにも、ときどき日記はつけていましたが、どのように書くかということは考えずに、まったくの自己流でした。
 考え方には、きまりがあると知ったのは、大学で「論理学」に出会ったときです。それは哲学の一分野でした。「考え」は、コトバで組み立てるものだということも知りました。それがわたしの哲学の目覚めでした。
 というわけで、わたしは、考えを組み立てる学問として哲学を学び始めました。その後、いろいろな哲学書を読みましたが、日本の哲学者の中で最も優れているのが戸坂潤の哲学だと思います。ひとことで言うと、唯物論の哲学です。現実を根拠にしてものごとを考えて、現実を変革するための哲学です。

●考えるための作文教育
 作文について戸坂潤の考えのポイントは三つです。
 (1)作文は教育の手段である。
 (2)作文は文章を使って表現する能力を訓練するためのものである。
 (3)作文は形式的な面から文章による表現能力を鍛える手段である。
 作文は論文と対比されています。つまり、論文は、内容の価値が問題にされますが、作文は、形式から内容に迫るための訓練です。最初から価値ある内容が書けるわけはありませんから、形式にしたがって考える訓練が必要です。それが作文の教育です。
 わたしも、以前から考える力をつけるための文章指導をしてきました。形式の面から、考え方つまり書き方を鍛える教育です。そのために、いくつかのレベルから訓練方法を考えています。それは次の三つです。
 @単語で考える A文で考える B文と文の関係で考える
 @単語でできることは、比較と分類です。まず、思いついたことを単語で羅列します。それから、単語同士を比較して、共通性においてまとめます。まとめ方は一通りではありません。考えの角度を変えると、共通性も変化します。たとえば、「トマト」は、「キュウリ」といっしょに野菜に分類されます。しかし、色では「郵便ポスト」、形では「サッカーボール」の仲間になるのです。
 A文でできることは「判断」です。文は主部(ダレガ・ナニガ)と述部(ドウスル・ドウダ)との組み合わせでできています。それが「考え」の基本単位です。「金、飯、風呂」などの単語を言うだけでは「考え」にならないので人に伝わらないのです。
 B文と文が論理的につながって文章になります。文と文とのつながりは接続語による論理によって分類できます。わたしは接続語を十一通りに分類して、考え方の論理的な展開をとらえています。
 以上のように、三つのレベルから作文教育の形式的な訓練ができます。わたしはそれを「文章トレーニング」と呼んでいます。
 論理学を現実に生かすためには、「考え」は文章のかたちにまで具体化して表現されねばなりません。それによって、初めて「考え方」の教育になるのです。そう考えると、哲学者である戸坂潤の作文教育の考え方がいっそう深い意味をもってきます。(過去の「はなしがい通信」)
posted by 渡辺知明 at 19:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 「はなしがい通信」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月27日

「はなしがい通信」243号(2006年10月号)日本人の発声と訓練法

 九月に終了したNHKテレビの朝の連続ドラマ『純情きらり』の主役の宮崎あおいさんの演技は素晴らしいものでした。しばらく朝のドラマに注目しなかったわたしも、しばしば画面に引きつけられました。しかし、その声についてはずっと気になっていました。アニメ映画の吹き替えのような幼児声なのです。新聞の投書にも、「主人公が成長して行くのに主役の女優が若いままなのはおかしい」というものがありました。せめて、あの声がおとなに変わるだけでも、成長過程は表現できたでしょう。

●日本の伝統的発声法
 わたしはこの十年ほど、意識して自分の声の発声法を工夫してきました。近ごろは、「方丈記」や「おくのほそ道」などの古典のよみを録音して、インターネットで公開しています。
 そして、気がついたのは、日本の伝統的な発声法があるということです。しかし、現代の日本人には伝統的な発声法ができなくなっているのです。そのいい例が時代劇です。時代劇そのものがテレビでも映画でも少なくなっているうえに、俳優たちが時代劇らしい発声ができなくなっています。わたしが子どものころには、東映時代劇が全盛でした。歌舞伎の世界から移ってきた俳優たちが、これぞ時代劇の声という台詞の声立てを作り上げていました。中村錦之介、月形龍之介、東千代之介、片岡千恵蔵などのセリフの言い回しを聞けば、それがどのようなものか分かります。
 ところが、今の若手俳優たちが一言、セリフをいうと、いかにも現代風のものになってしまいます。とても時代劇とは思えません。
 日本の伝統的な発声法には、いくつかの特徴があります。腹の底から出てくる息、ノドの力を生かした発声、高低ではなく強弱によるアクセント、などです。
 発声の要素は4つあります。(1)息、(2)ノド、(3)舌、(4)口――現代風の発声ではとくに(1)と(2)に問題があります。一般にコトバの批判というと、発音やアクセントやイントネーションに向けられますが、むしろ根本は息の吐き方やノドの力の入れ方にあるのです。つまり、一つは、身体全体を使った力のある息が出せないこと、もう一つ、声帯周辺の筋肉に力を入れた強い声が出ないという問題なのです。

●米山文明『声と日本人』
 最近、米山文明『声と日本人』(1998平凡社選書)を読んで、学校教育における発声教育の必要性を感じました。数年前に、斎藤孝氏による「声に出して読む日本語ブーム」というものがありました。今ではずいぶん下火です。というのも、「読む」ということについて、発声指導の面でも、内容理解の面でも深まりがなかったからです。
声と日本人
声と日本人米山 文明


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 米山氏は、声帯を中心にして発声の研究をしている人です。大勢の外国のオペラ歌手の声帯の治療してきました。おもに、声楽の発声研究をしていますが、この本では、すべての発声行為、つまり話し声にも通じる根本的な発声法を提唱しています。
 わたしは、これこそ学校教育で行われるべき発声訓練の根本だと思いました。米山氏がその方法を思いつくにはきっかけがありました。じつは、わたし自身も同じ舞台から同じ印象を抱いていました。
 一九九二年に演じられた木下順二の群読劇『子午線の祀り』です。新劇、歌舞伎、能、狂言などのさまざまなジャンルから集まった役者たちが作り上げた舞台で、時には声を合わせて「群読」するというものでした。
 米山氏は、個々の役者のセリフ回しには感心しながらも「群読」について次のように書いています。
「ところが群読に入ったときふと気がついた。もちろん声の高さも強さも違うのは当然であるが、セリフもよくそろい、テンポ、タイミングも見事であはる。しかし何か物足りない。聞いているうちにそれが何であるのか次第に鮮明になってきた。/音源になっている喉頭原音と、喉頭から下部に生ずる体全体を含めた体壁振動があるか否かの問題である。確かに声の音色は多彩で変化に富み、それなりに素晴らしいのであるが、各種の声の土台となって喉頭部分より下で作られて支える共通の響きがないのである。聴いていて群読全体としての声の根底に大きな不安定感を持った。」
 わたしも同じ舞台を同じころ見て、ほとんど同じ感想を持ちました。当時のわたしは、発声に関する知識はないので、米山氏のような分析はできませんでした。しかし、今ではこの指摘がよくわかります。

●基本的な発声訓練
 米山氏の発声訓練は次のような方法です。
「受講者たちは第一段階では発声を離れて呼吸法を中心に学び、ある程度会得した段階から少しずつ声を作るところに進む。この発声に入る段階で、呼息の流れに乗はせて各自勝手に声を添えるように指示する。言葉ではなく、単一母音(各自勝手の母音、あいまい母音でよい)、音の高さ、強さ、持続、音質とも個人の自由である。この場合「声を出す」ということをとくに意識させないように、母音も明確な構音ではなく、「ウ」でもなく、「ア」でもないようなあいまいな声(動物のうなり声のような感じの音)を乗せながら呼気を送り続ける。/このようにして発せられた声の集合音はふしぎなことに、何とも言えないような溶け合った音になるのである。」
 これによって、前に挙げた二つの問題点のうち、息の吐き方は解決します。もう一つ残された問題として、ノドの力の鍛え方があります。こちらは、演劇、歌舞伎、能、狂言などのジャンルによって求められるものに差があります。また、話し声の分野でも、アナウンス、ナレーション、朗読、あるいは講談、落語、浪曲などによってノドの力の必要性には差があります。しかし、あらゆるジャンルに共通する発声の基本は次の二つです。
 1、高低ではなく、強弱でアクセントをつけられる能力――これで英語の発音のアクセントも向上します。
 2、口先からの発音ではなく、喉の奥で飲み込んだノドの力の入れ方――これはコトバと意識とのつながりを成り立たせる基本です。
 世間では、たかがコトバではないかという風潮が一方にはあります。しかし、声によるコトバの表現によって、思考能力が高まることはもちろん、自らの感情をコントロールしたり、意志の力や精神力を高めるられるのです。まさに、「コトバの力=生きる力」なのです。(過去の「はなしがい通信」)
posted by 渡辺知明 at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 「はなしがい通信」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月13日

『はなしがい通信』242号(2006年9月号)

 一芸に秀でる者はなんとかと言いますが、確かに一流の仕事をする人の考えはすばらしいと思いました。久石譲著『感動をつくれますか?』(角川oneテーマ21)を読んだ感想です。久石氏は映画音楽の作曲で活躍する人です。アニメ映画に関心ないわたしでも、宮崎駿監督「ハウルの動く城」「もののけ姫」などの音楽を担当者だと知っていました。
感動をつくれますか?
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 久石氏はこの本でものをつくる喜びを語っています。ものを作る姿勢には、二つの道があるといいます。(1)自分の思いを主体にして、つくりたいものを作る生き方。(2)自分を社会の一員として位置付けてものづくりをしていく生き方。
 久石氏はもともとクラシック音楽の出身で、(1)の立場から前衛的な音楽の作曲をしていたそうです。しかし、今では(1)と(2)とを統一しながら仕事をしています。「つねに創造性と需要の狭間で揺れながら、どれだけクリエイティブなものができるかに心を砕く」、そして「人に喜んでもらう、人のためになる音楽を作りたい」といいます。
 わたしは若いころ、白樺派の考えを人生の基準にしたことがありました。「自己を生かす」という考えです。自己中心的な考えのようですが、徹底すればいつか「人のため」に転化します。たとえば、世界に不幸な人がいる限り、自分の心が痛むのだから、人のために何かしてやりたくなります。久石氏も、作品の良さがすべてだと考えて、自分の満足のゆく作品をつくることを目指しています。

●作曲の能力とは何か?
 作曲という創造的な仕事にはどんな能力が必要なのでしょうか。久石氏は「作曲には、論理的な思考と感覚的なひらめきを要する」と書きます。そして「感性」と言われるものの95%が「論理性」ではないかといいます。それは「知識や体験などの集積」です。そして、残り5%が「作り手のセンス」「感覚的ひらめき」つまり「直感」だというのです。
 これは現代の若者がタレントを志望する風潮への批評です。若者たちは自分に才能があるかどうかすぐに決定したがります。しかし、才能が95%、知識や体験などに依存すると知ったらどうでしょうか。センスとひらめきだけの才能では、先行き怪しくなるのは当然です。たしかに、「感性」は貴重です。知識や体験などに解消されない才能かもしれません。久石氏は次のゲーテのことばを引用しています。わたしも好きなことばです。
「感覚は欺かない。判断が欺くのだ。」
 ただし、これは偉大な教養人として学識の高いゲーテだから自信を持って言えることばです。
 そこで問題となるのは、直感や感覚をどう生かし、どう育てていくかです。そこに教育の問題があります。久石氏も次のようにいます。
 「最近いろんな人と話していて思うのは、結局、いかに多くのものを見て、聴いて、読んでいるかが大切だということだ。」そして、映画や本などを例にあげて、「さまざまなところにアンテナを張り、たくさん観て、聴いて、読む。行って、やって、感じる。自分に溜め込む知識や経験知の量を、極力増やしていく。」というのです。その結果、「感性」や「直感力」が育つわけです。
 さて、近ごろの若者には、自分の能力を磨こうとせず、ありのままの自分にとどまる傾向があります。能力の不足を感じたなら磨けばいいのです。久石氏の考え方は示唆的です。偶然の出会いすら、自分の成長のための好機とします。そこには自分の能力や自分を固定したものとしない考えがあります。これこそ芸術家である人間の魅力です。
 「僕は『偶然の出会い』を非常に尊重したい派だ。なぜなら、確固たる自分なんかないと思っているからだ。自分の力など絶対的なものではない。さまざまな影響を受けながらものをつくっていく中で、多少『自分らしさ』として浮かび上がってくるようなものでしかない。」、「自分も仕事も感性も、すべて確固たるものなどない」というのです。

●音楽の能力と言語論理教育
 久石氏は、現代の教育についても提言しています。日本と中国の伝統的な音楽の演奏法を比較して、日本人は過去の形を忠実に守っていくものの創意工夫がないといいます。個人の音楽家でも同様です。クラシック音楽のコンクールに入賞した演奏家が、海外のオーケストラに入って伸び悩んでしまいます。
 「譜面どおりに弾いて正確だし、技術もしっかりしている。ところが、自分の音が浮いている。どう演奏していいか分からなくなってしまう。初めて自分の音楽に向き合わなくてはならなくなったときに、目標が見つからないために、どうしたらいいかわからない。」
 現代の教育への久石氏の提言は単純です。
「僕らが今、子ども世代に最も伝えなければならないことは感じ取る心を持つということだ。」たとえば、戦争について考えさせるにも、戦争は悲しい、いけないという「意識を持てれば知識は後からついてくる。」といいます。久石氏は、教育者ではありませんから、「感じる心」を強調するだけで、教育の方法には立ち入りません。しかし、ここまでの考えをたどり直せば、教育の道が見えてきます。
 「感じる心」つまり「感性」とは、95%の論理的な思考と、5%の感覚的なひらめきによって働くものです。これまで日本の教育は「知育偏重」として批判されてきました。そして、「感性」や「情緒」などの心情的な面の教育が強調されてきました。
 今、久石氏の唱える「感じる心」とは、単なる感情ではありません。95%の論理力と5%のひらめきとの統一です。久石氏が「知識」とは言わずに「論理力」を強調したところは、芸術作品の創造者としての久石氏の面目躍如たるものです。
今、教育に必要なのは、断片的に詰めこまれる知識ではなく、現実認識をめざして論理的に働く生きた体系的な知識なのです。それこそ、子どもたちの「感じる力」を育てるものです。
 わたしは以前から、コトバを使って論理的に考える能力をつける「言語論理教育」を提唱しています。コトバと思考とは切り離すことのできません。久石氏も「はじめに」でこう述べています。
 「人間は、ものを考えるという行為を、言葉を介してやっている。」
 創造的な芸術活動は、無から生まれるものではなく、コトバによる論理的な思考活動に支えられています。「感性」や「直感」の土台にはコトバを使った論理的な思考能力があるのです。(過去の「はなしがい通信」)
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2006年10月07日

『はなしがい通信』241号(2006年8月号)

 夏休みに合わせて『ゲド戦記』というアニメ映画が公開されています。たまたま読んでいた本の著者が、この原作者であると気がつきました。偶然のことです。わたしが読んでいたのは、アーシュラ・K・ル=グウィン『夜の言葉―ファンタジー・SF論』(2006岩波現代文庫)です。著者が女性であることも意外でした。SFとは、サイエンス・フィクションの略語で、科学の知識を生かして書かれた虚構の作品です。著者は、『ゲド戦記』に代表される自分の作品を、SFではなくてファンタジーだと主張します。ファンタジーとは。ストーリー性の豊かな虚構の作品です。そして、作品の中心に位置するのは人間であり、人間の存在感を通じて語られる真実だといいます。
夜の言葉―ファンタジー・SF論
夜の言葉―ファンタジー・SF論アーシュラ・K. ル=グウィン Ursula K. Le Guin 山田 和子

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stars「心の旅」を表現する小説

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●「子どもと影」の寓話
 この本には十二の講演や論文が収められています。わたしが感心したのは「子どもと影」という講演です。アンデルセンの童話を題材にして人間の自我について論じています。アンデルセンの童話は、こんな話です。

 都会へ出てきた青年が向かいの家の美しい娘を好きになりますが、なかなか声をかけられません。ある夜、ろうそくの火が作り出した自分の影が向かいのバルコニーに届いたとき、青年が「その家へ入れ」というと、影は青年から離れて家の中へ入っていきました。その後、青年には新しい影ができます。年をとるまで勉学に励んでも学者として成功できません。中年になったある日、もとの影が戻ってきます。影は人の弱みにつけ込んで学者を言いなりにします。影が主人で学者は従僕にさせられます。そして、最後に学者は影によって殺されます。

 グウィンは、これを人間の自我の問題として語ります。人は一面では文明化した主人公として振る舞います。「学問があり、親切で、理想を追い、かつ節度を知る人物」です。しかし、影の面として、「主人公の実現されなかった利己主義、許されざる欲望、けっして口にされることのなかった罵り、犯されざる殺人」などを具えています。影とは、「魂の暗い半面であり、許されざるもの、許しがたいもの」です。

 だからといって、影を否定してしまえばいいというのではありません。「この怪物(注=影)が主人公の一部であって、彼と一つのまとまりをなしており、全面的に否定してはならない」。「アンデルセンの物語が言っていることは、自分の影に直面せず、それを受け入れもしない人間は亡者のようなものだ」というのです。
 
●自我と共同体の意識
 影に関する人間の心理が、心理学者ユングの考え方にもとづいて分かり易く解説されています。ユングは「自我」とは「自己」の一部にすぎないと考えます。そして、「自己」とは「個人の所有に帰するものではなく、集合的なもの、つまり私たちは全人類と、そしておそらく全存在とも、この〈自己〉を共有しているのです。」

 今、日本では一人ひとりの人間のモラルの低下が問題になっています。個々の人と公共との関わりは、現代の重要なテーマです。どうしたら個々の人が公共の意識にたどり着けるのか。次のような指摘があります。「自分が自分自身以外の者、自分自身を超えた、より大きなものの一部だということを認めなければならない」

 ただし、自我が弱かったり、ましなものがないと、自我は自分を〈集合的意識〉と同一視してしまいます。具体的には「○○崇拝、ドグマ、一時的流行、ファッション、出世競争、慣習、当たり前のように信じられている常識、広告、ポップカルト、あらゆる××主義やイデオロギー」といった意識です。それらは「真の意味での交わりや体験の共有を欠いた、空虚な、形式だけの集団思考」です。人はその中で〈寂しい大衆〉のひとりにならざるをえません。

●子どもの成長と影
 では、そこからどうやって脱するのか。そこで再び「影」の持つ価値が見直されます。
 「真の共同体を獲得するためには、自我が内へと向かうこと、群衆に背を向け、根源へと向かうことが必要です。自我は自分自身の内の、より深い領域、つまり、〈自己〉という偉大な、未開拓の領域を自分と同定(?)しなければならないのです。」

 「同定」というのは、ふしぎなことばですが、「向き合う」といった意味でしょう。ユングはこの領域を〈集合的無意識〉と呼んで、「全人類が一堂に会する場であり、自身の共同体の成立の基盤である」と考えたのだそうです。

 以前に、「人類はみな兄弟」などというスローガンを聞くと、わたしは嫌な感じがしました。しかし、人間同士が公共の場で生きるときには、たしかに共通の場があるのです。

 わたしたちは子どもの世界をヘンにきれいごとにしてしまったり、逆に「影」の面ばかり見たりします。二つの面をまとまりとして見ずに、その時々に切り離しています。しかし、大切なのは、光と影との一体化です。自分の全体を光と影との統一として見ることなのです。影を見つめようとしないと、影の力は恐るべきものになります。「人が自分の影を見ることが少なければ少ないほどその力は強くなり、ついには一種の脅威、耐え難い重荷、魂の内なる恐怖の種ともなりうる。」

 さて、子どもたちの成長にとって、影にはどんな役割があるのでしょうか。
 小さな子どもたちは、影を自分の外にある恐ろしいものと考えます。しかし、思春期になって「自分」を認識するようになると、影を外部のものにはできなくなります。自分の行動や感情に責任をもつとともに、「罪悪感という恐ろしい重荷」も背負いこみます。そこから、どのように脱出したらよいのでしょうか。それは意外に簡単なことです。

 「若者にとって、この時期の自立と自己嫌悪の呪縛を切り抜ける唯一の方法は、真にこの影を見据え、面と向かい、このイボも牙もニキビにも鈎づめも何もかも自分自身なのだ、自分自身の一部なのだと認めることです。」
 この心がけは何も若者に限ったことではありません。わたしたちおとなも、生きている限り日々繰り返すべきことです。この本のタイトル「夜の言葉」とは、まさに、この影が発する無意識のことばに耳を傾けるということなのです。
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2006年09月08日

はなしがい通信(240号)2006年7月号

 内田樹さんは「旬」の批評家です。わたしが最近読んだのは春日武彦さんとの対談『健全な肉体に狂気は宿る――生きづらさの正体』(角川oneテーマ21)という本です。縦横無尽と言いたくなるような話しぶりで、さまざまな問題が語られています。
健全な肉体に狂気は宿る―生きづらさの正体
健全な肉体に狂気は宿る―生きづらさの正体内田 樹 春日 武彦

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starsで、不全感は?
stars第一線精神科医 の本音
stars雑談の中に放たれた主張
stars楽しく読めました。
stars放言録

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●「不安」からの脱出
 カバーには〈「自分探し」「自己実現」に疲れ果てた人へ〉と紹介されています。現代人の「不安」は、「自己」の確立を迫られたがために生じたものです。それが大きな負担になっています。「不安」からの脱出法について内田さんは語ります。
「「自己」って単体で存在するわけではなくて、人間たちを結びつける社会的なネットワークの中でどういう役割を演じるかということで事後的に決まってくるものなんです」
 内田さんは、授業を受け持っている女子大学の学生にもこう語ります。
「君の能力や資質のうち、他人が必要とするものを提供し続けてゆくことが『キャリアパス』なんで、どれがキャリアになるかを君は自己決定することはできないんだよ」
 この考えならば「自己」を問いつめずに楽に生きられます。「夜回り先生」として子どもたちを救っている水谷修さんがよくいう「他人のためになることをしなさい」ということばにも通じるものです。
 先の先を考える必要がなくなるので、「取り越し苦労」もなくなります。「不安」はほとんど取り越し苦労です。「こうなったらどうしよう、こうなったらえらいことになる……」という思いです。しかし、「一瞬後には何が起こるかわからない」のです。
 内田さんはこう言います。
「日常的な経験のほとんどは取り返しがつくんですよ。「リセット」ということではなくて、文脈を変えることによって、過去の意味が変わってくる、ということなんです。」
 「自分探し」と時間との関係についての関係もおもしろい考えです。「自分探し」は、地図のような広がりの一点に立って、目の前に「未知の領域」が広がっているイメージです。内田さんは、そんな「自分探し」は「すごろく」のイメージだといいます。つまり、「自分」というキャラクターは少しも変化せずに、平面的に広がった世界をただ歩いて行くだけのゲームです。ところが、実際の人生では、「一秒後の私」はもう「今の私」とは別のものです。時間とともに変化し発展してゆくのです。

●「戦闘ゲーム」と人間の成長
 内田さんは「洋服というのは、その人の一番弱い部分とか感受性のやわなところが外部に露出しているところ」だといいます。そして、服の本来の機能というのは「入れ墨」「ピアス」などから始まった呪術的なものだ」と言います。服装とは、「戦闘モード」の象徴だというのです。若い人の好むアニメには「モービルスーツもの」があります。人間が巨大なロボットに乗り込んで操縦するようすは戦闘服の延長です。かつて、若者が迷彩服を着ることが問題になりました。しかし、今では洋服からアクセサリーに至るまで、「戦闘能力」を高めそうなデザインのものが店先に並んでいます。
 このモデルとなるのが、戦闘をテーマにした「自分探し」のゲームです。「敵」と戦って勝利すれば、武器が獲得できて「戦闘能力」が高まるのです。わたしは以前に手塚治虫の漫画「どろろ」を自己成長の物語として論じました。出世のために、父親が生まれてくる赤ん坊のからだの各部を妖怪に譲り渡しました。そうして生まれてきた子どもがのちに自らのからだを取り返すために妖怪と戦っていく話です。
 これと今の戦闘ゲームとには大きなちがいがあります。今の戦闘ゲームでは、戦闘能力を高める武器が付け加わるのですが、「どろろ」では、失われている人間の能力がよみがえります。しかも、その戦いの目的が直接に自分の利害を目指すのではなく、「世界の方が自分に向けて呼びかけてくる、それにどう答えるか」という行動なのです。

●家族の構成と不幸のファクター
 内田さんは、家庭教育についても、ユニークな発言をしています。とくにおもしろいのが、家族の四つの構成単位の考えです。家族というと核家族というのが常識です。しかし、そこに、「おじさん」や「おばさん」を加えるべきだというのです。
「父がいて母がいて子どもがいる家庭に、男の子にとっては、母親の兄か弟にあたるおじさんが父親に拮抗する役割を引き受けるわけです。父親が子どもに示す価値観に対して、常にその逆を示す。それによって、家庭内にある種の流動性が生まれるわけです。」
「その家庭の中で、権威を持っている人間に対して、その人と同性でほぼ同じくらいの社会的地位にいる人間が、ドミナントな価値観とは「ずれた」価値観を示すというかたちで、親族が固定化することを防ぐ」ということです。
 たしかに、志賀直哉の小説「母の死と新しい母」でも、「おじさん」が重要な役割を果たしていますし、NHKの朝のドラマ『純情きらり』でも、「おばさん」の活躍が目立っていました。
 内田さんは、人が「不安」になることの根本には「父権制イデオロギー」があるといいます。「何か強大で強大なものが世界を一元的にコントロールしてい」るという考えです。この考えでは、何か悪いことが起こると、「単一の責任者」を考えます。それによって「不安」を解消しようとするのです。ところが、内田さんはそうは考えません。
 アントニオ猪木の次のコトバをあげています。「ピンチと言うのは無数のファクターの総合的な効果である」
 こう考えると、不幸について考えることがずいぶん楽になります。
「自分が不幸な目にあっているのは、さまざまなファクターの複合的な効果であって、もしほんとうにそこから脱したいと思っているなら、その不幸を構成しているさまざまな要素を一つずつ丹念に取り除いていくしかないんですね。一つ一つはものすごく小さいものだから、その除去作業自体はわりと簡単なんですよ。」
 内田さんはフランスの哲学が専門ですが、最初に読んだ構造主義の哲学の解説本にも個性的な考え方がたくさんありました。ここに来て人と人生について語る哲学にさらに深まりが出てきたようです。(2006年7月バックナンバー)
posted by 渡辺知明 at 15:20| Comment(2) | TrackBack(2) | 「はなしがい通信」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする