子どもたち自身の問題もあります。体力も精神力も数十年間、低下しつづけています。立ち幅跳びのできない子ども、倒れても手をつけずに顔をぶつける子ども、ボールが投げられない子どもなど、本当かと驚いてしまいます。
●先生が取るべき道
中島義道『〈対話〉のない社会』(1997PHP新書)を読み返しました。いじめについてもずいぶん書かれていました。中島氏はいじめの対極には「思いやり」や「優しさ」の強制があるといいます。そして、その陰に「利己主義」があると言うのです。
「教室で「いじめ」らしいことが起こったとしても、先生は加害者を特定することを激しく嫌う。」
そこには、先生自身の「利己主義」があります。
「すべての生徒を納得させようとし、すべての生徒から批判されたくないゆえに、先生は悩み苦しむ。あらゆる父兄からも教師からも、はてはマスコミからも批判されないような道を歩もうとして、先生はもだえ苦しむ。その苦悩は思慮深い外形をしているが、実は怠惰や無責任と紙一重である。」
ここに、〈対話〉にかかわる日本社会の根本問題があります。それについては後で触れることにして、先生が取るべき道はハッキリしています。
「しかし、そんなこんなはすべて二の次なのだ。〈今ここ〉で全神経を集中させるべきこと、それは被害者を死なせないことである。」
「被害者の発するサイン」と「目撃者の証言」を信じて行動することです。
「自分の直感と経験を頼りに断固とした行動をとり、最終的には自分が責任を引き受けるべきである。」
「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの | |
![]() | 中島 義道 おすすめ平均 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() Amazonで詳しく見る by G-Tools |
●「思いやり」と「優しさ」の罪
中島氏が著書の中で最も強調しているのが「責任」です。「〈対話〉のない社会」とは、個人が言葉を発しない社会です。街から聞こえてくるのは、誰に話しかけているのか分からない駅のアナウンスやデパートのアナウンスです。あるいは、街角に張られた標語やスローガンです。中島氏は、これらの無責任な言葉に怒りを覚えて「戦い」を挑みます。(『うるさい日本の私』(1999新潮文庫)参照)
いじめの一方で盛んに唱えられる「思いやり」「優しさ」についても、中島氏は批判します。すべての人に気に入られ、満足されるような発言はあり得ないというのです。ある人が「思いやり」や「優しさ」を、発揮することが、他の人びとにとっては「暴力」になることさえあるのだといいます。
たとえば、列車内の親切なアナウンスが、眠っている人にとっての「暴力」になることもあるのです。「思いやり」や「優しさ」を語る人ほど、それに気がつかないというのです。中島氏の考えは明解です。
「すべての人を傷つけないように語ることはできない。いや、できるかもしれない。しかし、その時は真実を語ることを放棄しなければならない。」
こう考えて次のように決意します。
「人を傷つけまいとして真実を語らないことではなく――場合によっては(とくに教室や研究室では)人を傷つけても真実を語ること、しかし責任を取ることを選んだのである。」
「優しさ」については次のように語ります。
「最新型の「優しさ」の特徴をなすものは、他者との対立や摩擦を徹底的に避けることであり、この目的を達成するために「言葉」を避ける。ひとことで言うと、自分に異質なものとしての他者を徹底的に恐れるのである。」
こうして育ってきた子どもたちが、どのようになって行くか、およそ見当がつきます。実際、わたしが直接に接している若い人たちは、誰もが異様におとなしく、やさしいのです。そして、口数が少ないことは共通しています。〈対話〉ができないのです。
「〈対話〉とは、各個人が自分固有の実感・体験・信条・価値感にもとづいて何ごとかを語ることである。」
〈対話〉とは、会話ではありません。お互いがやり取りしながら、お互いの違いを知ることです。ところが、日本では、お互いの「一致」や「協調」ばかりを求められます。自分固有の考えを持つような人は、ますます発言しにくくなるのが日本の社会です。それはもう精神の領域におけるファシズム(全体主義)と言えそうです。〈対話〉のないところ、〈対話〉のない社会には、進歩も発展もありません。
●〈対話〉のある社会とは?
最後に、中島氏が「〈対話〉のある社会」として示す九箇条、これが素晴らしいのでそのまま引用しておきます。
@私語が蔓延しておりながら発言がまったくない社会ではなく、私語がなく、素朴な「なぜ?」という疑問や「そうではない」という反論がフッと口をついて出てくる社会
A弱者の声をおしつぶすのではなく、耳を澄まして忍耐づよくその声を聞く社会
B漠然とした「空気」に支配されて徹底的に責任を回避する社会ではなく、あくまでも自己決定し、自己責任を取る社会
Cアアしましょう。コウしましょうという管理標語・管理放送がほとんどなく、各人が自分の判断にもとづいて動く社会
D紋切型・因習的・非個性的な言葉の使用は尊重されず、そうした言葉使用に対しては、「退屈だ」という声があがる社会
E相手に勝とうとして言葉を駆使するのではなく、真実を知ろうとして言葉を駆使する社会
F「思いやり」とか「優しさ」という美名のもとに相手を傷つけないように配慮して言葉をグイと呑み込む社会ではなく、言葉を尽くして相手と対立し、最終的には潔く責任を引き受ける社会
G対立を避けるのではなく、何よりも対立を大切にし、そこから新しい発展を求めてゆく社会
H他者を消し去るのではなく、他者の異質性を尊重する社会
中島氏は、そして、こうまとめます。
「あなたはこうした社会の実現を望まないであろうか。」
さて、あなたはどうですか。(過去の「はなしがい通信」)