2009年01月21日

文章推敲力を育てる添削入門講座(35/35)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことには、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

※全35回の連載をまとめたパンフレット『文章推敲で思考力を高める―大学生のための添削指導法』ができました。A5判64ページ頒価1000円(送料共)。ご希望の方はメールでお申し込みください。

【連載】第35回
●文と文とのつながり

●十一種類の接続語
 添削のレベルの二つめは、文と文とのつながりを見ることです。目の付けどころは、接続語のチェックです。文中に接続語が出てきたら必ず四角でくくって確認してください。よく見かけるのが「そして」です。これを使った文章はたいていダメです。たいてい要らないので削ります。

 ところが、うまいのもあります。漱石などは「そうして」という接続語をうまく使っています。なにか述べておいてから、間があって「そうして」となります。いいところで使うのです。

 「そして」が出てくるのは、先ほど話した四つの文章展開のうち、「物語」の場合です。さまざまな事態が順々に起こって、最後に「そうして」と決まるような場合には生きた表現になります。

 接続語の種類については、わたしが接続語を十一種類にまとめた「接続語の論理的機能一覧」をご覧ください。二〇〇二年にまとめました。これを考えたきっかけは、中学校の塾で教えているときのことです。接続語の相互の関係をわかりやすく示せないかと思ったのです。最初はもっと単純な図式でしたが、それを二〇年ほどかけてまとめました。

 文章の論理的なながれが的確かどうかを確かめる判定方法があります。文と文との間に省略された接続語を入れてみるのです。それによって文のつながりがうまくいっているかどうかわかります。

 ほとんどの文と文との間に、十一種類の接続語のうちのどれかが入ります。文章のながれがいいときには、接続語は省略されるので書かれていません。しかし、何らかの論理が生きて働いています。だから、文章がつながっていると感じられるのです。そのつながり方は接続語で証明できます。

 文と文との間に、的確でない接続語が入ると、論理が乱れてしまいます。例に上げた接続語の「だから」と「なぜなら」とはペアになっています。

 先ほど問題を出したまま答えを言いませんでした。あらためて問いかけます。「だから」の反対は何でしょう。「……だから……」、この表現を逆に書き換えたらどうなるでしょうか。もうお分かりですね。「なぜなら」になります。

●対立する接続語の関係
 文章の添削ではこのような逆の表現を入れ替える場合があるのです。つまり、「理由を先述べて結論をいうか」、「結論を述べてから理由をいうか」という二つの選択です。

 理由が先なら、結論を「だから」でつなぎます。結論が先なら「なぜなら」でつなぎます。この二つの接続語は対立します。

 また、「事実」について語る場合には、「事実」の場合には、「すると」と「しかし」が対立します。前のことと後のことが自然につながる場合には「すると」です。それに対立するのは「しかし」です。「しかし」は、その前後の内容が逆の関係にあるのだと言われますが、そうではありません。前の文から想像されることが後の文でひっくり返る場合に、「しかし」を使います。

 ほかには、「例えば」が具体化、「つまり」が一般化、この二つも対立する組み合わせです。二つの内容が対等の関係で比べられる場合には「に対して」となります。そして、「もし」が仮定、「(する)ため」は目的です。これもペアの組み合わせです。

 ほとんどの文と文との関係が、この十一通りでカバーできるだろうと、わたしは考えています。いわば、この十一通りの接続語をマスターすれば、論理的に話をしたり、論理的なつながりを持った文章が書けようになるのです。

 以上で、今日の話を終わりにして、次回は各論として、添削の細かい点についてお話をする予定です。(一日目終了)

文章推敲力を育てる添削入門講座(34/35)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことには、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第34回
●文章の読み方

 ひとつ細かい技法を紹介しましょう。添削する文章を見るときに、原稿用紙をテーブルの上に上下二段、左右二列に分けて並べるのです。ちょうど本を見開きで見るように全体が見通せます。ちょっとした工夫ですが、部分的に文章を見ているのとはちがいます。添削の能率があります。

 文章の内容をより広く把握できるからです。原稿を一枚ずつよむのとは大きなちがいです。携帯端末の小さな画面で文章をよむのと、パソコンの大きな画面でよむときちがいはここにあるのです。文章の全体を見通しながら、各部分を添削することが、より的確な添削につながります。

 みなさんは、本屋で本を買うときに、見開きにして字面を眺めることはありませんか。そして、ぺらぺらとめくって行くと、眺めるだけでも、ある程度、文章の善し悪しが分かります。さらに、部分的でいいですから、小さな声を出して読み上げるとなおさら内容がよくわかります。

 わたしは、声を出してよむのが癖になっていまして、文学館などへ行っても、展示作品をついつい小声で読んでしまうことがあります。また、電車の中でも、小声で表現よみの練習をしてしまうことがあります。ただし、喉の奥で筋肉を緊張させるだけで
、ほとんど聞こえないくらいの小さな声です。

 ちなみに、黙読をする時でも、人の喉の周辺の筋肉が運動するのです。それが実験によって証明されているそうです。ですから、ほとんど声を出さなくても、喉の緊張だけで音声イメージのトレーニングができます。アクセント、プロミネンス、イントネーションなどが明確なイメージになるのです。

 文章の理解でとくに大事なのは、プロミネンスです。ほとんどの文にプロミネンスされる語句があります。文がある種の主張をする場合や前の文の意味を受けて次の文が書かれた場合などには必ずプロミネンスがあります。ですから、黙読するときにも文中のいずれかの語句が強調されるはずです。

 次の例でもどんな意味を伝達するかによってプロミネンスの位置が変わります。
 「これは一般に知られている事実ではないが、私はあえて言いたいのだ。」

 いくつかのプロミネンスが考えられます。前半が前提で後半が主張となっています。一つは、「知られている」と「言いたい」との対比、もう一つは「一般」と「私」との対比です。それぞれ力が入ったものの言い方になります。これがプロミネンスです。

 文章を読んでプロミネンスが感じられるようになると、この人の文章はひと味足りないなという判断ができます。そのとき、そこに「しかも」を入れたらどうだろうかとか感じられます。何となくさみしいなというときに、プロミネンスの感覚の助けで書き加えるべき語句が見えることがあるのです。このあたりは上級の話です。

 以上のような読み方で、わたしはその本を買うか買わないか判断しています。添削のときにも、できるだけ広く字面を見ながら行う方がよいのです。(つづく)

2008年10月06日

文章推敲力を育てる添削入門講座(33/35 )大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことには、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第33回
●添削のレベルとは
 文章に添削をするときの「着目レベル」については、講義レジュメ「1の(3)」としてだいたいお話しいたしました。
 4つの段階、4つのレベルがあります。

 1、文字を直すのか?
 2、文を直すのか?
 3、文と文とのつながりを直すのか?
 4、段落を直すのか?

 添削というと表記などの字句直しばかりが問題になります。しかし、それは添削の最終段階でチェックするものです。それ以前に、大きなレベルから小さなレベルへ進むという手順をとるべきです。

●段落への注目
 理論文ではまず大づかみに段落の構成から見ます。文学文では、文章の頭から、一語一語の表現をていねいに読むのですが、理論文の場合には構造的に読みます。大きいレベルから小さいレベルへと読むという原則が成り立ちます。

 まず始めに、形式段落ごとに丸数字をつけます。形式段落とは、段落として一文字下げられたところです。この作業は文章の構造を分析する第一歩です。最初、ひと固まりに見えた文章も、段落ごとに分かれると全体像が見えてきます。

 これはコメントを書くときの呼び名になります。「何段落の何行目の……」として使えます。また、文章を書く指導でも、段落に丸数字をつけさせるとよいでしょう。レポートを出す時には必ず「段落に番号を振りなさい」と言うのです。さらに、「段落ごとに小見出しを付けなさい」と言えば段落の構成が意識できます。「それがこの大学の方法です」という特別なやり方になってもよいでしょう。

 小見出しをつけるなどと言うと特別な作業のように思われますが、文章を書くときには、だれもがやっているのです。途中まで書いていって、今まで何を書いたのかなと考えます。そのとき、段落全体の内容を小見出しにまとめてみるとよいのです。すると、次に書くべき内容がまとまった形で思い浮かんできます。

 日本コトバの会の文章教室では、文章助言の勉強のとき、グループで小見出しをつける方法をとっています。文章を順番に音読する前に、段落ごとの小見出しを確認します。司会者が「一段落の見出しをつけましょう。どなたか言ってください」と言うと参加者がそれぞれ的確な小見出しを言います。

 小見出しはたいてい段落の中のキーワードとして拾い出せます。印しつけ作業でで丸や線がつけてあれば、その語句から小見出しが選べます。たいていそれで間に合います。しかし、段落の内容をまとめた語句を工夫しなければならないこともあります。そんな文章はまとまりのよくない文章です。

 段落のキーワード、あるいはテーマについては、作者が意識しなければなりません。それに対して、添削する人は段落ごとの内容をとらえます。そして、段落の組み立てと文章の流れを考えます。そのときに、小見出しが役に立つのです。一つの段落を見たら、「ここの内容は、この小見出しにまとめられるな」というふうに段落のテーマをつかむのです。それをつかんでいないと、添削の方針も決まりません。

 いい文章ならばテーマがよく分かるように書けています。ところが、困ったことには、「この段落のテーマはどちらだろうか?」と迷うような文章が多いものです。迷った二つの場合があるときに、どちらがテーマなのか定めないと添削はできません。

 小見出しをつけると内容が二つに割れてしまう段落があります。一つの段落に二つの小見出しがつけたくなるのです。前半はこの内容なのに、後半はこの内容になるという具合です。その場合には、さっきの改行の記号で段落を二つに割ればいいのです。それも一つの添削です。

 段落に小見出しをつけることは、段落ごとのテーマをとらえることです。この読み方が大事です。読みちがいがあると添削の目標が変わってしまいます。そうして、段落の小見出しを並べて読んでみると、文章全体のおおまかな流れはつかめるものです。それで文章全体の見通しができますから、添削もやり易くなります。(つづく)

2008年09月22日

文章推敲力を育てる添削入門講座(32/35)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことには、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第32回
●語句を取り換える
 今度は語句を入れ替える場合です。
 あらためて繰り返しますが、添削をする時には、文章を頭からじっくり読んでいくことです。書かれた順に読んでいって、すっきり内容が入ってくるのがよい文章です。これを語句の入れ替えの原則とします。文の入れ替えの原則もこれです。

 まず気になるのは、長い修体文素が重なった文章です。「……し、……し、……し、……している私」といった言い回しです。新聞の投書などで、「……し、……し、……し、……しているこのごろです」という文を見かけます。

 これは絶対にやめた方がいい表現です。読み手にとって不親切です。なかなか結論が出てきません。肯定するのか否定するのかわからずに、読んでいかなければなりません。しかも、終わりで意味をひっくり返すこともできます。

 前にお話しした借金を申し込むときの話し方みたいです。文章の場合には、目で見ているから先に飛んで結論が分かります。しかし、話しの場合、聴き手は耳で聞いていますからイライラしてしまいます。十秒前の音は記憶から消えるのだそうです。

 つまり、文章においても、耳から入る音(オン)を重視するのです。読み手の頭に入りやすい語句の並び方にします。まず、言うべきことを言ってしまうことです。原則として単文で言い切ります。そして、そのあとに必要な内容をつけ加えるのです。

 一つ一つの文について語順の工夫をします。耳で聞いて頭に入りやすい文にします。理解しやすい語順の感覚は読み方で訓練できます。毎日、短い文章を声に出して読んでください。たとえば、新聞のコラムです。一日、三分くらいですみます。読み方のポイントは、声に出すと同時に理解しながら読むことです。竹内敏晴さんは、演劇のセリフの訓練のために短歌を読み上げる方法について書いています。そのやり方が読みの訓練にもなります。(『「からだ」と「ことば」のレッスン』1990講談社現代新書)
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 演劇の訓練生に、短歌を読み上げさせます。そのとき、「先のことばを考えるな」という注意をします。短歌は短いものですから先のことばは予想はできます。しかも、よく知られる短歌ですから、下の句まで分かっています。それでも、「考えるな」と言うのです。つまり、声を出す瞬間ごとに、先が分からないつもりで読み上げて行けと言うのです。先の分かったコトバを予想どおり読んでしまうと、表現に空きができると言うのです。このように声と意識とをつなげる訓練です。

 さらに、すぐれた文学作品となると、語句や文の論理的なつながりに加えて、心理的、感情的なつながりも表現されています。太宰治「駈け込み訴え」「きりぎりす」などは、その好例です。
 ですから、添削をするために文章を読む読み方が重要なのです。さらさらと文字をよむのではなくて、頭から一語一語きちんと読んでいくのです。そのときの作業の重点は「添削のレベル」として設定できます。レジュメをご覧ください。

 大原則として、漫然と文章の全体をながめるのではなく、どのレベルの添削なのか目標を定めること、そして、大きな部分から小さい部分へと添削を進めるということです。作業ごとの重点目標を定めて、今はどのレベルの添削をしているのかを意識するのです。そうしないと、出たとこ勝負の添削になってしまうのです。

 文章の読み方では書き出しが重要です。ゆっくりとていねいに読みます。書き出しの数行についてじっくり考えるのです。書き出しにはいちばん時間がかかります。それは、みなさんが文章を書くときと同じことです。書き出しでは結びまで想像して書いているからです。文章の終わりにつながるような書き出しになるかどうかを考えているのです。

 「楽屋話」から始まる文章はよくないものです。みなさんの文章の中にもありました。「学生さんのレポート添削のお話を伺い、自分自身の文章を書く力について考えました。真っ先に思い浮かんだのは卒業論文です。」こんなふうに文章を書く動機から始めるのはよくありません。いきなり中心点を目指す文章がよいのです。そこに行き着くまでの迷いは最終的には削るべきです。

 いい書き出しというのは、こんな文です。「添削というと真っ先に思い浮かぶのは卒業論文です。」簡潔です。すぐに内容に入れます。読み始めで読み手を引きつけます。漫才でいう「つかみ」がいいのです。そんな書き出しになるように添削しましょう。
 理論文の書き出しには凝る必要はありません。レポートや論文などでは露骨にテーマを書いてしまいましょう。「私がこのレポートで……について何々を報告します。」あるいは、「私はこの論文で……が……であることについて究明したい。」という書き出しでよいのです。確かに文章としては不細工かもしれません。それでよいのです。中心テーマが伝わればよいのです。(つづく)

2008年09月01日

文章推敲力を育てる添削入門講座(31/35)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことには、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第31回
●修飾語の書き加え
 次は修飾語を書き加える場合です。修飾語には修用文素と修体文素とがあります。
 修用文素とは用言(動詞、形容詞、形容動詞)を修飾するもの、修体文素とは名詞を修飾するものです。どちらも一般には文学的なレトリックだと思われていますが、論理的には「限定」です。「みかん」というよりも、「夏みかん」というほうが意味が限定されます。
 理論文であっても、アイマイなことば、たとえば「かなり、たくさん」などの修飾が必要な場合があります。ところが逆に、書かない方が良い修飾語もあります。それについては講義レジュメをご覧ください。
 「4添削の細かい技術――表記法など」の「(二)語句(漢字・かな・カタカナ)」に例を挙げています。これらは意味をアイマイにするムダな修飾語です。たとえば、「……のような」「……という」「……ている」「とても」「大変」「かなり」「非常に」「……と思う」などです。
 芥川賞を取った吉本ばななさんに『キッチン』という小説がありました。わたしは書きだしだけ読みました。こんな風に書いてありました。「わたしが一番好きなのは台所だと思う。」というのです。これでは困ってしまいます。「おいおい、「……と思う」なんてあいまいなこと言わないでくれよ」
 ちなみに、文章というものは、あえて言うなら、すべての文の文末に「と思う」がつけられます。それは文というものが、すべて書き手の判断であるということからきています。
 しかし、「と思う」という表現は責任のがれです。政治家がよくやります。「……と認識しております。」「……と記憶しております」といった具合です。こういう表現は文章に書いてはいけません。とくに、自分の考えを明確にするときにはだめです。責任を持って書くのですから、「と思う」というような表現は困ります。この部分は削ります。
 みなさんにお返しした文章でも、わたしが削った部分があるかもしれません。「……と思われる」という表現もよくありますね。うっかりすると書いてしまうものです。ほかに、「……のような」「……という」などの婉曲表現も責任の放棄につながります。
 今、若い人に流行っている表現があります。「ミルクの方、お下げいたします」とか「お水の方、お持ちいたしますか」とか言うのです。わたしは、「お水の方ではなく、お水を持ってきてください」と言いたくなります。「……の方」と婉曲に言うことで丁寧な感じがします。しかし、文章の表現では削ってよいのです。

●「遠慮コトバ」を避ける
 ほかに、わたしが名づけた「遠慮コトバ」というものがあります。――「少し」「とても」「大変」「かなり」などのことばです。書き手が遠慮しているか、厳密に表現しようとするのですが、読み手にはアイマイな感じを与えます。「ちょっと……」と書いてしまうと、そのあと何か続けて言う必要がなくなります。アイマイに納得して、それで終わってしまいます。考えが停止するのです。
 しかし、「……である」とはっきり断定するならば、「しかし」とか、「ただし」とかいう接続語をつけた文がつながります。いわば説明責任が生じて、何か付け足して言いたくなるのです。ところが、「あいつはちょっと元気がなかった」などと言ってしまうと、考えが次に進んで行きません。
 また、わたしは話をするときによく使うのですが、「自慢するようですが……」とか、「失礼ですが……」という言い回しです。これは形式的に口に出すだけで、「ごめんなさいね」と儀礼的に謝っているわけです。こんな表現は会話においては意味があります。しかし、文章においては、文学文でなければ心理的な効果はありません。論理的には自慢をしているわけですから、失礼なことになるわけです。こんな表現も、文章においては、書き手にとっても読み手にとってもエネルギーの浪費になります。
 文章では明確に言い切るべきです。自慢なら自慢で自慢してほしいのです。「簡潔明瞭」これが文章の大原則です。「自慢するようですが……」とか言わないで、「自慢します」という方が、話し手の責任が明確です。アイマイに表現することで、明確な判断を逃げているのです。以上のようなアイマイなことばは原則として削ればよいのです。(つづく)

2008年08月12日

文章推敲力を育てる添削入門講座(30/35)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことには、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第30回
●「文」に何を書き加えるか?
 それでは、「運ぶ」という動詞について考えてみましょう。この動詞の要求する文素とは何でしょうか。どのような言葉が必要でしょうか。必ずあるべきものは主文素と述文素です。文の基本成分です。文で言うならば、「わたしが、運ぶ」という形になります。
 それでは、そのほかに必要な要素は何でしょうか。それは、動詞によって文法的に決まっているのです。今、日本にはすばらしい文法があります。獨協大学の下川浩さんです。日本コトバの会の運営委員長と会長代行を兼ねています。副学長を務めた人で、専門はドイツ語学ですが、日本語の文法についても造詣の深い人です。この人が日本語の動詞が要求する文素の分類をしています。
(注『日本のコトバ』14号に、動詞、形容詞、形容動詞などの補足文素の分類をしています)
 日本語のほとんどの動詞、さらに形容詞、形容動詞なども含めて、用言の要求する文素の一覧表を作成しています。これはすばらしいものです。残念ながら日本の文法学会ではその価値が十分に認められていないようです。

●「運ぶ」に必要な文素
 さて、動詞「運ぶ」には、どのような文素が要求されるでしょうか。おわかりでしょうか。まず、動詞にはそれが自動詞なのか他動詞なのかの区別があります。これは、どちらでしょうか。
――他動詞です。
 そうです。他動詞です。ならば、客文素「……を」が必要になります。英語の文法でいう目的語です。例えば、「私は自動車を運ぶ。」といった文ができます。まだ、ほかに足らないものがありますか。
 この文から何が想像できますか。この文について、何か質問したいことがありませんか。そう考えてください。この文の意味が成立するために、さらに必要な要素が二つあります。
 だれかが手元にある荷物を指さして、「おーい、これ運んでくれ!」と言ったときに、これだけではダメなのです。補うべき要素があるのです。あと二つです。おわかりでしょうか。ヒントになるのは、格助詞の「…を、…に、…と、…ヘ、…で、…より」です。このうちの二つが欠けています。いかがでしょうか。
――「……に」です。
 そうです、場所を示す「…ニ」が欠けているのです。さらに、もう一つ「……から」も欠けています。「おーい、これ運んで」という場面では出発点が分かっていますから、到着点だけ示せばいいわけです。つまり、ある場面では、「今」「ここ」という状況が設定されていますから、「……へ」ないし「……まで」が示されれば行動できます。場面での暗黙の了解です。
 しかし、文章ではそれがありません。文章と話しとのちがいです。文章では、暗黙の了解が成り立ちません。ただし、文脈において意味が成立している場合には省略できます。前の文に必要成分が書かれていれば、同じ要素が省略できるのです。ここでも、文章の流れをしっかり読んでいるかどうか試されるわけです。
 添削をする人は、それぞれの文に欠けている要素がないかどうか、欠けているときには、どの要素なのかを考えるのです。
 たとえば、「運ぶ」の場合には、「……から」と「……へ」とがあるかどうか、そして、文章の流れからみて、どちらが省略できるか考えます。もしも省略できない場合には、「この要素を入れなさい」とコメントするわけです。
 以上が、添削の「添」の第一の方法です。これが書き足しの方法です。(つづく)

2008年08月04日

文章推敲力を育てる添削入門講座(29/35)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことは、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第29回
●単語をどう加えるか
 それでは、これから、単語をどう加えるかという問題に入ります。第二点の「不足した文素の追加」についてはすでにお話ししました。「文素のダブリは省略できる」という話をしました。つまり、添削のうちの文章を削る場合の考え方でした。
 今度は、必要な要素が文に欠けている場合の問題です。添削のうちの書き加えについてのお話です。この場合の必要な要素とは、それぞれの文の述語が要求する要素のことです。文法的には「補足文素」と言います。具体的には「何を」「何と」「何から」「ダレと」などの要素です。
 例えば、「運ぶ」という動詞があります。「私は運ぶ」という文を書いたとき、この動詞はどのような文素を要求するでしょうか。述語が動詞の場合には、まず、他動詞なのか、自動詞なのかという区別が問題になります。他動詞ならば、必ず「……を」が必要です。他動詞と自動詞との区別は、動作の対象である「……を」があるかないかの問題です。
 他動詞では、対象となるものを必要とします。例えば、「食べる」という動詞は、対象であるもの、つまり、パンとか、ご飯とかです。文としたらば、「私はパンを食べる」「私がご飯を食べる」と書かねばなりません。「私は食べる」だけでは、「いったい何を食べるのだろうか?」という疑問がわきます。それに対して、自動詞の場合には、「……を」という対象は必要ではありません。
 動詞には、たいてい他動詞と自動詞とがペアになっています。たとえば、「始める」と「始まる」です。どうちがうかお分かりですか。例文を作ってみるとちがいが判ります。「戦争が始める」とは言えません。「戦争が始まる」となります。これには「……を」は入りませんから、「始まる」は自動詞です。
 それに対して、「戦争を始まる」とは言えません。「戦争を」は他動詞「始める」の補足文素ですから、ほかに主語が必要なのです。ところが、自動詞の文「戦争が始まる」では、何か戦争が自然に始まってしまったような印象があります。無責任な感じです。他動詞の文で、「誰かが戦争を始める。」と書けば実態がはっきりします。この場合には、「ダレが」という主体が明確になるわけです。
 わたしには一つの思い出があります。小学生のときのことです。雨の降った日でした。運動場に出られないので教室の中でボールを投げをして遊びました。わたしが友だちに向かって投げたドッジボールを友達が受け止めずに頭を下げて避けたのです。
 ボールは窓ガラスに当たりました。それで、わたしは先生のところへ行って、「先生、ガラスが割れました。」と言ったのです。すると、先生は変な顔をしました。それから言ったことばは今でも忘れません。すごい先生です。わたしにこれだけ記憶を見つけたのですから。
 「ガラスが割れたのか? ガラスは割れるのか? おまえがガラスを割ったのだろう? だから言いに来たのだろう」と言ったのです。これは一生忘れないでしょう。
 その責任問題が、戦争にも当てはまります。「戦争が始まる」と「戦争を始める」とではまったく意味が違うのです。そして、「戦争を始める」 の文については 、当然、主語である「ダレが」という要素について、明確に意識をして書き込む必要があるのです。自動詞と他動詞の区別は、このような意味で大切なのです。これも添削による指導であり、ひろく「作文教育」の目的にもなります。さらに、文章の書き方に限らず、そもそものの考え方につながる重要な問題なのです。
 さらに、能動文と受動文とのちがいもあります。これも、今回の添削の例の中に出てきています。というわけで、添削というものはとても重要であるということがよく分かります。(つづく)

2008年07月16日

文章推敲力を育てる添削入門講座(28)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことは、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第28回
●「論証」の展開
 四つの文章展開のうち、四つ目は「論証」です。これまで話したように、接続語を使った文の論理的な組み立てのことです。
 わたしは「たとえば、つまり、なぜなら、……」という接続語を組み合わせた論理トレーニングを工夫しています。これについては論のかたちというものがあります。一般的には三段論法と言われています。これを、わたしをもっと明確な形に組み立てています。論の三段構成です。三段論法はそのままこの形に組み立てられます。

 (1)私は、○○は……であると考える。(意見/考え)
 (2)なぜなら、……だからである。(理由)
 (3)というのは、……だからである。(根拠)

 いちばん上が「意見(考え)」です。二段目が、「理由」です。三段目が、「根拠」です。この場合に、接続語が、「なぜなら」と「というのは」とを区別して組み入れています。理由も根拠の表現も、「……から」が受けることばになっています。こういう構成です。
 有名なソクラテスについての三段論法を当てはめると次のようになります。

 (1)私はソクラテスは死ぬと考える。(結論)
 (2)なぜなら、ソクラテスは人間だからだ。(小前提)
 (3)というのは、人間とはすべて死ぬものだからだ。(大前提)

 この展開が中心となって、論が構成されます。これを補助する接続語では、「たとえば」で事例を入れたり、もう一つ事例を増やすのに「また」を入れたり、論に対立する意見を「しかし」で並べたりして展開をします。
 「考え」のあとには「理由」が書かれます。さらに、「理由」につづけて「根拠」が追加されることもあります。ただし、新聞の投書や日常会話では「根拠」は述べられません。「常識なのだからわざわざ言わなくてもいい」というわけです。しかし、学生に論理的な文章を書く訓練をさせる場合には、必ず「理由」と「論拠」まで明確に書かせます。
 わたしの文章トレーニングでは、この三段を文章の組み立てのかたちではっきりさせています。常識に乗っている考えの隠れた根拠まで明確にさせるのです。「常識」で済まされている考えが論理づけられるのです。そして、書き手の考えもそれだけ深まるわけです。こうして人は考えを掘り下げられるのです。
 「考え」は根拠まで掘り下げたときに明確になります。ある考えについて理由は同じでも論拠がちがうという場合が多いのです。たとえば、「私は胃が悪いので薬を飲んでいる」という考えがあるとします。「わたし薬を飲んでいる」という場合に、「理由」は「胃が悪いからである」。そう言われるとなるほどと納得しそうです。しかし、論拠はちがいます。いくつか考えられます。「以前に飲んだ時に聞いたからだ」「医者にその薬を飲むと言われたからだ」「テレビのコマーシャルで見てきそうだと思ったからだ」という具合に何通りもの論拠が考えられます。そこまで深められないと「考え」のちがいが明確になりません。

●ディベートと論の組み立て
 わたしは何年か前にはやったディベート教育の方法には疑問を感じています。「情報主義」になっています。情報をたくさん集めればそれが論拠になるだろうという考え方です。論理がないのです。論としての理由づけや論理づけがないままにディベートをしています。そのせいでしょうか、一時期はずいぶん流行ましたが、近ごろは下火になって廃れつつあるようです。
 ちなみに、昭和三十年代の後半、わたしの所属する日本コトバの会では討論指導のためにディベートの理論化と実践を進めた時期がありました。今から考えれば、ずいぶん早い着目でした。今日も、わたしが持参している『コトバ学習事典』(初版1988/2刷1990一光社)には、ちゃんと討論指導の項目が入れられています。当時は大学対抗のディベートの競技会もあったそうです。その当時から、わたしの師である大久保忠利はディベートに関する論文をいろいろと書いていました。論の立て方についても論じています。
『コトバ学習事典』
コトバ学習事典
コトバ学習事典日本コトバの会


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 ところが、現在行われているディベートは、論の組み立てという点が非常に甘いのです。論の組み立てがアイマイなままディベートをしているのですから、論理的な訓練にはなっていません。議論にならないのです。情報の量によって知識の量で勝ち負けが決まる競技になっているように見えます。(つづく)

2007年12月06日

文章推敲力を育てる添削入門講座(27)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことは、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第27回
●添削では何をどう書き加えるか?
 今回はレジュメの「3添削の原則と手順」の「(2)加える」についてお話しします。レジュメには、@文A単語B接続語の書き加えと三つの項目をあげました。
 文を加えるのは、内容の書き込みが不足している場合です。或る文のあとに文を入れないと文がつながりません。文の種類としては、説明、注釈、追加などがあります。わたしが文を書き加えるときの基準としているのは文章展開の四種類です。(澤田昭夫『論文の書き方』講談社現代文庫)
論文の書き方 (講談社学術文庫 (153))
論文の書き方 (講談社学術文庫 (153))澤田 昭夫

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●文章展開の四種類
 文章展開とは次の四つです。
 @物語、A描写、B説明、C論証
 これは論文のレトリックのとして提唱されていますが、あらゆる文章に当てはめることができます。むしろ、論文よりも一般の文章の書き方に広く応用できます。

 第一は、「物語」です。時間のながれによる文の展開です。時間の系列でできごとを書きます。「……した。それから……した。それから……した。」という文章のつながりです。たとえば、仕事の手順の書き方です。たとえば、料理のレシピです。「初めにこれをして、次にこれをして……」という時間系列で仕事を進めます。それを文章で書いたものが「物語」の展開です。

 出来事を時間の順序どおりにていねいに述べてほしいのに、飛躍していることがあります。そのために分かりにくくなります。もちろん、飛躍させた方がいい場合もあります。しかし、「物語」で書く能力の不足のために、飛び飛びにしか書けないのでは困ります。また、出来事の順序が入れ替わってしまうのも困ります。まず、出来事を時間の系列にしたがって順序どおりに書くことは基本です。さらに、細かく書くこともできるし、飛躍させた書き方もできる必要があります。

 物語の展開の基本は、時間系列にしたがって細かく文章を展開できる能力です。たとえば、テーラーシステムの設計などもそうですね。作業工程の管理をする場合には、このような時間系列の細やかな展開を文章で書くことのできる分析能力が必要です。どういう工程で、生産なり管理なりが行われるか、文章に書くことで考えることができるのです。

 学校の作文教育では、「それから、それから」という書き方はアタマから否定されるようです。しかし、まずは時間系列で書ける能力をつけることが基本なのです。というわけで、書かれた文章が飛躍して荒っぽい展開をしている場合には、「物語」の展開の文を書き加えるのです。

●描写とは?
 第二は、「描写」です。これは空間的にものを描き出す書き方です。「物語」は時間の展開、「描写」は空間の展開です。ものごとを明確にする場合、説明と描写とがあります。文学的な文章においては重要ですが、一般の文章論では重視されません。理論的な論文においても、事例を取り上げるような場合には描写的な表現が必要です。

 たとえば、ある会社に機械が置いてあるとします。機械の配置について文章を書いて考えます。その場所には、機械が何台あるのか。どのような配置になっているか。天井との関係はどうか。床はどうなっているか。目に見えるものについては、説明をするよりも描写をする方がよく分かります。広い意味での説明といえるのです。

 目に見えるように示すべきところで、そのものが見えない場合があります。描写不足です。その場合は描写の文を書き加えます。ただ「文を足しなさい」と指示するのは有効ではありません。「情景が分かるように描写で書きなさい」と展開の方法を示すのです。

●なにを説明するのか?
 第三は、「説明」です。論文を例にしましょう。専門的な用語などが出てくることがあります。そのたびに用語の定義をするでしょう。そうしないと、話を先に進められません。

 ごく簡単な文章でも説明は必要です。たとえば、「わたしが玄関から外へ出ると山田さんの奥さんと会った。」と書きます。そこで、「山田さんの奥さんというのは……」というように、新しい情報がでてくるたびに説明を加えるわけです。

 専門的な論文ならば、用語の定義は繰り返し繰り返し行われるわけです。その場合、「……とは」という書き方が、説明の基本的なスタイルです。いわゆる、「コトバの定義」の表現です。注釈とか、コメントとかいうものです。描写とはちがって、ものが目に見えなくてもよいのです。それが説明です。(つづく)

2007年05月30日

文章推敲力を育てる添削入門講座(26)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことは、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第26回
●言い切ることの大切さ

 困ったことがあります。文章は書き込めば書き込むほどあいまいになってくるものです。たとえば、「何とかのような気がするみたいに思われてくるのであった」というような表現があります。いちばんいいたいのはどこでしょうか。「思うのか、思わないのか」これがポイントです。肯定するのか否定するのか。人は不安があるので、どうしてもこんな表現になります。でも、文章では言い切ることが大事です。ムダを削るというのは言い切ることです。それでも、言い切ると不安なので付け足したくなります。「ただし」とか、「しかし」とか、付け足します。

 いちばんよくないのは、「何とかのような……」という書き方です。述部で結ばずに「……」をつけます。わたしは必ず文末まで言わせることにします。Eさんの添削で「終りまで言い切る」と指示したのはよい添削でした。このコメントはよいですね。「何を話題として書けばいいのか……。」――これでは意味がありません。文末をきちんと言い切れば、これに続く文が浮かぶのです。「しかし」なのか、「ただし」なのか、「なぜなら」なのか、「また」なのか、いろいろな文がつながります。

 ですから、文末まで言い切ること、これが文による考えの組み立ての基本です。「何が→何だ」「だれが→どうする」という単文で組み立てて、アイマイな文は削ります。これが第一の原則です。

 講義レジュメの3(1)の「(1)削る」にある「表現と癖」というのはこのことです。理論文の場合にはそう問題ではないでしょう。しかし、その人のクセなのに面白みの出てしまうダブリが困るのです。この言い回しは書き手が狙ったものなのか、あるいはクセなのか、その判断がむずかしいのです。書き手が狙っている場合もあるのです。ただし、その場合でも、文章をクールに読んで、「あなたは工夫しているようですが、読む人には迷惑ですよ」と判断して、思い切って削るのです。

 そのような場合には、先ほど話した「保留」という添削の方法もあります。加えた語句に傍線を引いて、「どうしますか? この表現でいいですか? 別の表現もありますよ?」と知らせるのです。あるいは、カッコをつけて書き手に推敲をすすめるのです。これも、添削が書き手に代わって完璧に文章を直すのではなく、共同で文章を仕上げるという考え方です。書き手に再提出させるなら、それが可能です。それが教育になります。

●ダブリと省略
 つぎに二つ目です。文の要素のダブリです。これは削ります。「昔の武士の侍が」とか、「馬から落ちて落馬した」とか、よく例にあがります。それから、主語を入れるか、入れないかの判断です。入れるなら、どこに入れるか、どの位置に入れるかという問題があります。

 次にあげた「補足文素の省略と追加」とはこういうことです。文の中で、助詞のついた「……を」「……に」「……と」「……へ」「……で」「……より」「……から」などの要素が省略される場合、あるいは不足する場合です。文がつながるとき、前の文で書かれた要素が次の文で省略される場合があります。あるいは、次の文のどの位置に置くかが問題になります。それを削るか入れるかによって文の表現の意味がちがってきます。

 たとえば、こんな文章です。「私はパンを買った。食べてから学校へ向かった。」――この文の流れでは、主文の「私は」は省略されます。また、最初の文の「パンを」は客文素と言います。これも次の文で省略されています。いちいち「私は」「パンを」と入れたらうるさくなります。要するに、文中にあって当然の要素は省略しやすいのです。前の文に書かれていれば、なおさら省略されます。これもエネルギー節約の原則です。その省略をした方がいいのかどうか、これが思案のしどころです。ここに、添削者の読み手としての判断があります。文章読解のセンスが試されるのです。煩わしいと感じるか、なくてもいいと感じるか、それが問題です。添削で時間がかかるのは、削るか削らないかと考えるときです。それを繰り返すのでずいぶん時間がかかるのです。

●教育のための添削
 学生向けの添削の場合には、完璧な添削は必要ないでしょう。今、私が考えているのは、学生のための添削、大学という場における添削の位置づけです。大学ではどういう添削が成り立つだろうかと考えています。一般の添削の目的は、文章を仕上げて完成させることです。書き手の成長よりも、文章そのものを仕上げることが目的です。注文した人は、文章が直ってよかったなと文章をよむわけです。また、新聞や雑誌などの添削では、記事が商品として読者に読まれることが目的です。

 それに対して、大学の添削では、書き手の能力を高めるという教育が目的です。だから、完璧な添削ではなく、保留をつけて書き直しをさせたり、推敲をさせたりすることに意味があるのです。本人が文章について自覚できるようなコメントをつけることも大切になってくる訳です。前に述べた※の印しや保留の方法も、その一例です。むしろ、保留とコメントあるいは代替案のついた添削の方が教育効果があがるのです。(つづく)

2007年05月20日

文章推敲力を育てる添削入門講座(25)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことは、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第25回
●ダブリを削る
 いよいよ添削の具体的な内容に入ります。これまでのところは、いわば添削のための予備的な知識の確認でした。
 では、講義レジュメをご覧ください。「3 添削の原則と手順」です。順に説明しましょう。
(一)削る・加える・取り換える
 この項は、(1)削ると(2)加えるに別れます。簡単に言うと、添削とは、削るか、加えるか、取り換えるか、この三つの作業です。
(一)削る
 削る部分は、文のダブリ、単語のダブリです。繰り返しや強調をしたりすることがあります。それは表現なのか、クセなのか、問題になります。注意するべきは、文や単語のダブリが、文章表現の効果を上げているのかいないのかということです。一般的には、「近いところで同じことばを繰り返すのはよくない」ということです。しかし、これも場合によります。それぞれの文章の効果として考えなければなりません。一律に当てはめられません。
 よくあるのは次のような場合です。ある段落で最初に主語が書かれます。例えば、「私は……」という文があります。それからあとは、主語に対応する述部が続きます。「どうした。どうした。どうした」という具合です。これにいちいち主語を入れる必要はありません。一度登場した主語は、交替しない限り省略が可能です。いちいち書いたらうるさくなります。途中で主語が、たとえば「母は……」と変わった場合には、書かねばなりません。入れ替わるまでの主語「私は」は省略されます。これをいちいち入れるならば削ってかまいません。

●漱石「こころ」の「私」
 ところが、文学作品の場合は微妙です。夏目漱石の作品「こころ」には、うるさいほど「私は」が登場します。「わたくし」と読ませているのでなおさら耳につきます。「私は……私は……私は……」という具合にやたらと出てきます。一般的な添削の原則から言えば、その多くを削りとることが可能です。
こころ
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 ところが、「私は……」を繰り返すことによる文学的な効果があります。個人主義と自己主張のテーマが「私は……」の繰り返しから感じられるのです。これは声に出して読んでみるとよくわかります。文字づらを読んでいる限りでは「私は……」が多いんだと頭では分かるのですが、声に出してみると「私は……」と繰り返すことによって、主体である「語り手」の意識が強調されるのです。上と中の青年も、下の遺書の中の先生も、同じように「私」を繰り返します。
 作品の冒頭からそうです。「私はその人を常に先生と呼んでいた。だから、ここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。」。その後でも、もっと続きます。「私は……」、「私は……」、「私は……」と、延々と書かれるのです。最初は気になりますが、読んでいるうちに、「私は……」が、音楽で言うテーマの繰り返しとして心に響くのです。それも漱石が作品の効果として狙ったのかもしれません。
 「こころ」で繰り返される「私は」の語句には、添削で削れるものはずいぶんあります。しかし、もし削ったとしたら、何度も繰り返して「私は」とよむときに感じられる作品の魅力がずいぶん失われるでしょう。
 このような文学作品の文章は例外として、とにかく添削では削ることが原則です。前にお話しした「エネルギー節約の原理」です。例えば、皆さんが書かれた文章の中でも、わたしが削った部分がずいぶん見られます。Bさんの文章では終りの二行を削っています。「しかし」とありますが、この接続語が意味を持たないので削りました。
 「しかし」はクセモノというのが、わたしの教訓です。逆に言うなら、文章の中で正確に「しかし」が使えるようになればしめたものです。むずかしいものです。Bさんは、「その葛藤によって自分というものが、自分がしているよりもはるかに深く……」と書いていますが、この部分は不要です。その代わりに、「しかし」を使って、「しかし、自分には不可解で認めたくない要素がたくさんある。」と言い切ればすっきりします。(つづく)

2007年04月22日

文章推敲力を育てる添削入門講座(24)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことは、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第24回
●添削記号の工夫
 添削の記号には決まり切ったものがあるわけではありません。いろいろな工夫の可能性があります。例えば、語句の入れ替えの場合には、線で囲んで入れ替えが分かるように示せばよいのです。第一の目的は、添削をされる人が「こことこことを入れ替えればいいのだな」と分かることです。

 注意するべきことは、添削を見やすくすることです。添削をすればするほど、用紙の全体がグチャグチャして読みにくくなります。赤ペンの線もたどりにくくなります。そうならないように、読みやすい線の使い方をすればよいのです。最短距離で示す方法を選べばよいのです。赤ペンで書きこむのが限界になったら、青ペンを二次的な添削に使うという手もあります。赤の上から青で書けば目立ちます。宮沢賢治の推敲原稿では、赤や青の書き込みがあります。(参考=渡辺推敲原稿)

渡辺推敲01渡辺推敲02

 さらにこんな記号も付け加えておきます。E改行の印です。長い段落の場合、あるいは段落の中で話題が変わる部分についてはこの記号で示します。クランクの形で改行の位置を示します。F行を続けるという記号もあります。これは長く伸ばした逆のSのかたちで、行末と行頭とをつなげるものです。段落を続けときにも使います。

 そのほかに、わたしが独自に使っている記号もあります。ヤマカッコです。保留の意味です。「これは、なくてもいいかな?」という部分を山カッコでくくります。そしてその脇に ? をつけておきます。そこを削るかどうか、判断は書き手にまかせます。これも、親切に学生に教えてあげるための記号つです。「どっちでもいい」という記号です。これも添削のルールに入れておくとよいのではないでしょうか。そうして、学生には、添削を受ける前にあらかじめ、添削の約束ごとをまとめた用紙を配布しておくと理解が深まるでしょう。

 どちらかの表現を選びなさいという記号もあります。まちがいではないけれども、別の表現があるという記号です。該当する語句に傍線を引きます。そして、その脇に代替案を記入します。これにも傍線を引きます。これがミソです。ほかの添削とちがうところです。二つあれば、二つ書きます。学生は検討して、どちらかの表現を選択することになります。検討することで学生は文章を推敲したことになります。

 また、わたしはコメントを記入する場合には、必ず頭に ※ をつけます。あるいは、コメントはカタカナで表記します。そうしないと、添削のことばなのかコメントのことばなのかわかりにくくなる可能性があるからです。

●添削の相互理解
 少なくとも、添削者と添削される者との間に、添削記号の共通理解が必要です。添削を受ける人が、どのように文章が添削されたのか理解できる共通ルールです。添削者の記号が添削される者に理解されることです。ルールが共有されることによって後のち、学生自身が、自分の力で自分の文章に添削できるようになります。そんなルールについても、これから考えてゆきましょう。

 先ほど、「わたしの力でやってゆけるのでしょうか?」とおっしゃった方がいました。わたしは一律に完璧な添削を求めているのではありません。「ここまでなら共通してやれる」というところで進めていけばよいでしょう。そのためには、原則となる共通ルールが必要なのです。その線をどこに引くかは、皆さんが協力して出していけばよいことです。ですから、心配しないでください。皆さんがやれるところの共通の添削をすればよいのです。

 添削を受ける側が記号が読めるようになれば、添削者が完璧に直さなくてもよいわけです。つまり、添削された文章を受け取った学生が、それをヒントにして自分の文章を推敲できればよいのです。添削者が検討するべき部分に記号をつけて、あとは書いた当人に推敲を任せるということでよいのです。添削者の考えで完璧な添削をするよりも、むしろそのほうが、学生の文章推敲力が高まるのです。(つづく)

2007年04月11日

文章推敲力を育てる添削入門講座(23)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことは、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第23回
●添削には校正記号を使う
 それでは、実践的なお話しに入ります。校正記号についてのお話です。
 ここであらためて言いますが、添削には校正記号を使います。しかし、添削について書かれた本で、はっきりと「校正記号を使ってやるのです」と書かれたのを読んだ覚えはありません。また、説明も書かれていないようです。そもそも添削の本がないのですから当然です。
 どなたか英語の校正をおやりになった方がいらっしゃるそうですけど、どなたでしょうか。「どういう記号をつけたらいいのか困った」という方いらっしゃいましたね。どなたでしょうか。そうですね。「添削をしてください」と言われても、どういうふうな書き込みをすればいいのか、まったく知らなければ困ります。
 校正記号の説明としておすすめする本は、日本エディタースクール編『校正記号の使い方』(1999日本エディタースクール)です。安いのにも関わらず、よくまとまっています。
校正記号の使い方―タテ組・ヨコ組・欧文組
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 このテキストをご覧ください。ずいぶん多くの記号があります。しかし、それほどたくさんの記号を覚える必要はありません。添削に使う記号として、わたしは8つの項目に丸をつけています。
 わたしの講義レジュメをご覧ください。「2添削の方法と手段(2)校正記号」に必要な項目を8つあげてあります。
 @誤字を直す、A文字を入れる(句読点)、B取り去る(取り去ったあとをあけておく)、C字を入れ替える、Dはなれた字を入れかえる、E改行、F行を続ける(追い込み)、G行を入れかえる
 以上です。どうでしょうか、私がお配りした添削の見本の例をご覧になると、とくに知識がなくても、けっこう常識で読み取れるでしょう。要するに、赤ペンの部分についてどのように直すか読みとれればよいわけです。
 
●添削には赤ペンを使う
 また、あらためて言いますが、添削には赤ペンを使います。なぜ赤ペンを使うのでしょうか。また、なぜ赤ペンを使うことに意味があるのでしょうか。
 はじめに、赤ペンを使うことの意義をお話しておきます。印刷された文章には、なかなか手を入れにくいものです。活字にはある種の権威が感じられるからです。わたしはレジュメにこんなふうに書いています。
 「活字でよむ文章には権威が感じられる。しかし、赤ペンを使って、印刷された書類や本をよごす経験は大切である。書物の権威と戦うことで、文章に自由に手を入れられる」
 「書物の権威と戦うこと」、これが重要なのです。あとは、「日ごろから赤ペンを入れながら文章をよむことによって、批評的な読み方が身につけられる。」という訳です。じつは、赤ペンを使ってよむことは、学生にやってもらいたい事なのです。
 本を読むときにも、添削をしながら読んでかまわないのです。赤ペンがいやならば、鉛筆で書き入れながらよむのです。「おかしな表現だな」とか、「この文章はおかしいな」と思ったら、正しい文章に直すのです。これが日ごろの添削の訓練になります。「この言い回しは変だな」と感じたら、その場で線を引いて△をつけておけばよいのです。わたしは実際にやっています。
 本になった文章や作家の文章が完璧かというと、そんなことはありません。どんな作家の作品にも必ず、おかしな言い回しや、直したくなるような表現があります。どんな作家でもあります。本になった文章を完璧だと思う必要はありません。直す余地があります。印刷されたということで権威が生じているのです。
 近ごろは多くの人がパソコンで書くようになりましたから、自分の文章を活字として読めます。本の形にすることもできます。ですから、活字や印刷物への権威はずいぶんなくなりました。しかし、より積極的に添削をしながらよむという訓練も重要なのです。
 ちなみに、わたしが使っている書きやすい赤ペンをご紹介します。100円です。パイロットから出ているVCORN〈直液式・水性〉というものです。いろいろなボールペン式の赤ペンを試しましたが、今ではこれがいちばん気に入っています。
 まず覚えて頂きたいのは、@誤字を直すことです。間違った文字から線を引っ張ってその先に正しい文字を書きます。簡単です。
 A間に文字を入れる場合には、引っ張った線の先を二つに枝分れさせます。ここに書いている記号です。書き加える部分がたくさんになった場合には、線の端を丸く漫画の吹き出しのように囲みます。作家の大江健三郎などは、マルで囲んだ書き込みがたくさんある原稿を書いています。
 Cいくつかの語句を入れ替える場合には、長いS字の形で入れ替えを指示します。あとは、B取り去るでは、文字の上に線を引けばよいのです。わかりにくければ線を二本ひきます。さらに、「トル」と付け加えてもよいでしょう。もしも、直してしまったところが間違っていて、元に戻したい時には、カタカナで「イキ」と書き添えておきます。
 だいたいこんなもんです。このくらい分かっていれば十分です。たくさんの記号はありませんから、むずかしくありません。(つづく)

2007年03月27日

文章推敲力を育てる添削入門講座(22)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことは、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第22回
●カギカッコと丸カッコでくくる
 第二に、理論文の場合でも、人の語ったことばにカッコをつけて読みます。会話にはカギカッコが付いているのが普通ですが、付いていなくても、だれかが口にしたことばならばつけます。いわゆる間接話法の部分です。こうすると、書き手のことばから書き手以外の人が語ったことばを区別して確認できます。
 また、人が心の中で思ったことばにはカッコをつけます。カギカッコと区別するために丸カッコと呼びましょう。言語学では「内言(ないげん)」と呼ばれることばの部分です。意識の外に出ずに人の心のうちで表現されることばです。人物の内面にあることばです。いわば心のうちの思いを表現したことばです。
 さて、この文章では(資料参照)、1枚目の6段落に内言の例があります。
添削資料01添削資料02
「……と思い込んでいる」という語句が目じるしです。その前の(客観的・中立的立場を求めなければいけない)という部分が内言です。書き手が学生たちの思いを表現します。「杓子定規に」を丸カッコの外に出しました。これは書き手による批評のことばです。つまり、書き手は学生たちに対して、(客観的・中立的立場を求めなければいけない)と思うことは杓子定規ですよ。よくありませんよと批評しているのです。
 どんな文章にも、このように書き手が他人の意識をとらえる構造があります。それは書き手がだれかと対話的に関わろうとすることから生じます。書き手のことばと他の人のことばとが、相互にからみあって書かれています。その関係を明確にするために、このようにカギカッコや丸カッコをつけるのです。
 ただし、理論文の場合には、丸カッコをつけるような表現はあまり使われていません。それに対して、文学文の表現にはたくさん出てきます。たとえば、太宰治の作品では、ひとりごとのような内言が延々と続く場合がめずらしくありません。そこに丸カッコをつけて読むと、人物の内面の動きがよく分かります。書き手や人物の気持ちや心理などは、このようなかたちで文章に組み入れられるのです。それは一般の文章にも応用できる大事な表現なのです。
 では、以上で、印しつけよみについては終わりにしましょう。

●文章の批評的な読み方
 ところで、今回課題に出されたこの新聞記事の文章は、よむのにとても時間がかかりました。正直なところ、いい文章ではありません。考えの論理構成が明確ではないからです。少し解説をしましょう。
 赤ペンの印しがいろいろと付いています。文章を読むときの印しつけは鉛筆でしますが、添削の場合には、いわば印しつけを赤ペンで行うことになります。レジュメで「項目」の印しつけと書いた例が、今回の文章の2枚目の5行目あたりにあります。9段落です。
 書き出しは次のように書かれています。(数字は段落番号)
 9「戦後日本の教育は、社会や伝統の抑圧に抗して個人の権利と自立性の尊重を強調してきた。」
 字づらを見ても理解しにくいので、名詞句を山カギでくくって、項目の丸数字を振ってあります。活字に直せば次のようになります。
 9「戦後日本の教育は、社会や伝統の抑圧に抗して〈個人の@権利とA自立性の尊重〉を強調してきた。」
 「個人の権利」が@です。そして、「個人の」は「自立性」にもかかりますので、項目番号は「権利」に@、「自立の尊重」にAとつけました。それぞれの項目は、「@個人の権利」、「A個人の自立性の尊重」となります。
 この文章の論理的な内容で問題になるのは、9段落、10段落あたりです。山カッコによって名詞句が目立ちます。このかたちで修飾語を重ねて、論拠なくいっきに論じてしまうのです。
 その例は、10段落の下から2行目です。〈個人主義思考を無批判に是とする教育〉とあります。このことは、これまでのどこに書いてあるのでしょうか。どこにも書いてありません。「個人主義的思考」とは、どんな思考でしょう。学生たちの発言のことでしょうが、それは例ではあっても定義ではありません。9段落の「個人主義」ということばを、10段落で「個人主義的思考」とまとめます。そうして、このような結論にしてしまいます。そこに至る論理の展開も説明もありません。
 9段落に「しかし、個人主義は両義的である。」と書かれています。しかし、この「個人主義」についても定義はありません。九段落、十段落は、いわばどさくさまぎれに持論を書いてまとめたようです。書き出しの、いわゆるイントロ部分、1段落から3段落から6段落あたりまでは、まったくムダなエピソードが語られています。言いたいことは、最後の一段落です。ところが、どさくさまぎれに書かれたので論理がありません。新聞にはコラムのような記事として掲載されたのでしょうが、もう少し論理の構成が必要です。添削したくなる文章です。
 以上、この文章はわたしの印しつけの見本としてお配りしました。(つづく)

2006年07月15日

文章推敲力を育てる添削入門講座(21)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことは、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第21回
●項目には丸数字をつける
 もう一つは、項目立てをしている語句については、線を引いて丸数字をつけていきます。これは、前にも話しましたが、落ちこぼれの塾で国語を教えているときにある生徒から教わって取り入れた方法です。「おもしろいことやってるね」と見つけました。
 ちなみにこんなことをご存知でしょうか。山にある木の数え方です。山の中に三百本ほどの木があるのですが、それをみなさんはどのように正確に数えますか。いろいろな方法が考えられます。わたしが生徒によく話しをするのは次のような方法です。あらかじめ三百本の縄を用意しておくのです。そして、一本ずつその縄で縛って行くのです。縄が不足すれば追加をします。追加の分が正確な数です。また、縄があまれば、それで正確な本数がが分かります。これも、丸数字をつける意味を示す一例です。

 以上のように、印しつけよみと言うのは、みなさんが添削のために文章をよむときの一つの方法です。しかし、これを一般の読書の方法として学生の指導にも利用できます。教科書をいっしょに読みながら、印しつけよみでポイントの理解を共有することができます。「どこそこのコトバにはマルをつけてください」「どこそこのコトバには線を引いてください」「どこそこのことばに丸数字を振りなさい」と言った具合です。

●段落に番号を振る
 さて、ここまで一時間半かかってお話ししてきました。今わたしが話しているのは、レジュメの「二、添削の方法と手段」というところです。はじめに、添削の第一はよむことだとお話しをしました。文章をきちんと正確によむ読み方として、印しつけがあるのです。これについて、最初にみなさんにお渡ししたわたしの印しつけの見本をご覧ください。もう一度、復習をしましょう。資料01資料02

 第一は、段落に丸数字で@AB……と番号をふることです。それにどのような意味があるかお話しします。これによって何が分かるのでしょうか。わたしの教育の基本的な考えは、説教をしないでやらせてしまうということです。理屈でわからせるよりも先に体験をさせてしまうという教育方法です。やってから考えさせる方法です。行為をさせることによって、あとで意識を生じさせる方法です。たとえば、「文章の組み立てをよく見なさい」と言うのは説教です。そうではなくて、「段落に番号を振りなさい」と言うのです。番号を振ればそれによって組み立てが見えてきます。「一段落よりも二段落が短いな」とか、「長い段落があるな」とか、「段落が平均しているな」とか。そんなことが感じられればいいのです。それで、文章の全体が段落によって分析されたことになります。それが認識です。

 添削の場合でも、段落に番号をつけておくことで、学生に文章の構成を自覚させることができます。添削者が段落に番号を振っておいて、あとで段落番号を示して「何段落が長い」とか、「この段落とこの段落はつなげた方がよい」とかコメントすればよいのです。長い段落ついては、「二つに分けなさい」とか指示をします。原稿用紙で二、三枚の文章では、段落をつけずに一つの文章を書いてしまうということもあるのです。

●テーマやキーワードをマルで囲む
 第二に、マルで囲んだ語句は主語あるいはテーマないしはキーワードです。わたしの見本の文章では、マルがついているのは、「学生たち、議論、レポート」などですね。じつは、このマルとセンと四角のついたコトバを抜き出すだけで文章の要約ができるのです。わたしはじっさいの授業ではテキストの文章を印しつけよみしてから、印しのついたコトバを板書します。そうして単語をつないで読みあげて要約をして見せます。新聞記事でも何でも材料になります。

●山カギで名詞句をくくる
 ところが一般的に要約というと、読み手の好みでポイントを抜き出すというような考えが多いのです。わたしが、文章の表現に忠実に山カギでくくった語句があります。これによって文そのものの構造が見えます。〈学生たちの間に蔓延する個人的、抽象的思考〉です。くくることによって、「私は……対峙できない」と書いてあることに対して、「何に対峙できないのか」ということが考えられます。それは、〈学生たちの間に蔓延する個人的思考的傾向〉というものです。さらに言うと、「〈個人思考的考え〉というものが、学生たちの間に蔓延している」という二重構造になっています。くくっておけばそれが一つのキーワードとして見えてきます。それは文章全体のテーマに関わる事になります。この文章の六段落からあとは重要でありませんから、わたしは印しをつけずにざっと読んでいます。(つづく)

2006年06月09日

文章推敲力を育てる添削入門(20)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことは、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第20回
●本のすすめ方
 「わたしはセルフラーニングを重視しています。先生がいなくても勉強ができる方法の工夫です。公文式から出た人が考えたラクダ式という教育方法があります。ラクダ式の算数数学といいます。わたしの研究所のスタートは、このラクダ式の教育として、算数・数学の通信教育をやっていました。

 「今でも、わたしの基本的な考えはセルフラーニングです。公文式の場合には、採点をするのは別の人です。ところが、ラクダ式では、ストップウォッチを使って自分で時間を計って自分で採点をするのです。今、百マス計算というものが流行っていますが、あれは岸本さんという人が開発したものです。景山さんは、岸本さんから学んだのです。

 「ラクダ式では、自分で採点をします。自己採点です。自分でストップウォッチで時間を計って、自分で記録表に結果を記入をするのです。ところが、百マス計算は先生が時間を計っています。それでは依頼心が育ってしまいます。

 「子どもの自主性を育てるためには、なんでも押しつけない方がいいのです。たとえば、わたしは学生に本をすすめるとき、こんな言い方をします。
 ――大きな声では言えないけれど、むかしは発売禁止だった小説が今では読めるのだよ。とんでもないシーンがあるのだけれども無削除で出版されているんだ。ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』という小説だよ。

 「わたしは、小沢書店から発売された『チャタレイ夫人の恋人』という小説を学生時代に買いました。ところが、今では、翻訳者の伊藤整の息子である人が、新潮文庫で無削除版を刊行しています。これまでは、性描写の場面はカットされていました。そこがすばらしい描写なのです。花が小道具として使われる場面が印象的です。関心ある方は、今は手に入りますからぜひお読みください。
チャタレイ夫人の恋人
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 「不思議なことに、堂々と出てしまうとこういう本も読まれないのです。学生のころ、わたしは上下二巻の初版の本を神田を歩いて探しました。当時、一冊1500円くらいしました。今の人は露骨でエロチックな作品はよむのかもしれません。しかし、文学的な想像力を刺激しません。ほかにも永井荷風の作品や、『チャタレイ夫人の恋人』のようなものは、性の描写も美しく想像させるように書かれています。

●山カッコでくくる
 「話を戻しましょう。まず、マルとセンです。接続語は必ず四角で囲みます。ないしは指示語です。これらは四角で囲みます。これが印しつけよみです。問題は、山カッコです。どこにつけるかというと、長い名詞句です。わたしは小説も書いていますが、最近、ある教訓を得ました。わたしの知り合いが中国の人です。開封大学というところの日本語の先生です。わたしの書いた「クロの話」(聴けて読めます)という作品を、中国語に翻訳してくれました。訳したあとで、十五項目の質問がメールで届きました。これで中国の人には何が分かりにくいか知りました。この山カッコのつくことばが分かりにくいのです。長い名詞句です。たとえば、「何々が何々する何々のこと」という部分です。それについての質問が半分近くありました。これは良い教訓でした。

 「次の部分を半分に書き直してくださいという質問がいくつもありました。日本語学科の学部長がそういう質問をするのです。ですから、学生諸君が分かりにくいというのも無理はありません。日本人の学生でもきっと同じことでしょう。長い名詞句を、山カッコでくくるのです。くくらせて読ませるのです。添削をするときにも、長い山カッコの部分を単文に書き換えるかどうかも一つのポイントになります。

 「まとめて言いますと、やたらと長い文章でも山カッコでくくることによって、簡単な文の構造が見えてくるのです。例えば、「……が、……と、……に、……を、……した」という構造の中に、山カッコでくくられる名詞句がはめこまれるという具合です。

 「学生諸君の書いた文章の要約の課題の中にも、山カッコでくくられる部分が取り出されるわけです。例えば、この学生はとてもよくかけていました。くくるべきことばをちゃんとキャッチしていました。モチーフはありませんが、文章に書かれた限りの要点を取り出してまとめています。山カッコでくくられるところを拾い出して、つないでいるという意味では要約ができています。(つづく)

2006年06月07日

文章推敲力を育てる添削入門(19)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことは、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第19回
●自分の索引を作る
 「本を構造的によむためには、索引を作るという方法もあります。本の全体をつかむためのいい方法です。専門の本などには索引が付けられています。しかし、もとから本についている索引は意外に役に立ちません。パソコンの技術を使って機械的に拾い上げるのでしょう。また、書き手の関心から作られたものなので、読み手としての不満が出ます。わたしはいらない索引を消したり、書き加えたりすることもあります。

 「自分のための索引はかんたんに作れます。わたしは索引を学生に作らせます。たいていの本には後ろのほうに空白のページがあります。それを利用します。と指導しています。最初の授業のときにこんなふうに話します。

 「この本には索引が付いていないから、自分用の索引を作りましょう。いちばん後ろの空いたページをタテに四つに折りなさい。一ワクごとの上に、ア、カ、サ、タ、ナ、ハ、マ、ヤ、ラ、ワと記入しなさい。そして、これから本を読んで行って、引きたいことばを見つけるたびに、そこに書きこんでページを入れるのです。」

 「それからしばらくは、授業のときに「このページの、この用語は索引に入れておきなさい」という具合に指示します。それからあとは学生の自主性にまかせます。

 「いちいち書きこむのはめんどうだという人がいます。しかし、経験してみれば分かりますが、「あのことはどのあたりに書いてあったかな」と、あとから本をめくって調べる手間を考えたら、読みながら索引に入れる方がよほど能率的です。要は、それを習慣化できるかどうかです。『随想録』の著者であるモンテーニュも「習慣」の重要性を繰り返し繰り返し語っています。
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 「小説を読むときにも索引をつけると便利です。とくに長編ですね。わたしは、エミール・ゾラ居酒屋』につけました。登場人物が最初に登場するときのページを入れておきます。次に登場したときには、そのページを見ることができます。わたしはほとんど読みませんが、推理小説の犯人捜しにも役にたつかもしれません。
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 「そのほかに、目的を決めて拾えば、さまざまなリストができます。わたしは調理師学校で教えていたので、作中に出てくる料理の名前を拾ってみることをすすめました。世間には、文学作品などから索引で拾い出したような内容をまとめたような本があります。そんな作業ならば本を読みながらかんたんにできてしまうのです。

 「このようにして索引を作った本は完全に自分のものになります。あとで、読み返したり、テーマについて考えたりするときに、じつに役にたちます。こういうふうになった本はもう捨てられなくなります。これも情報の収集の考えの一つの応用です。(つづく)

2006年06月05日

文章推敲力をつける添削入門(18)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことは、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第18回
第3章 添削の方法と手段

 「それでは、添削の方法と手段の項目に入りましょう。前おきでお話ししたことに追加して、実践的に詳しくお話しします。

(1)印つけよみ
 「第一が、印しつけよみです。学生にただ本を読ませるだけではなくて、必ず印しつけをして読ませるのです。わたしの読んでいる本をお見せしましょう。(参考画面

 「こうしてよまないと、わたしはじっくりと本が読めません。先ほどお話しした補習塾の中学生たちには、こうして本を読ませました。本を汚すのが嫌いな人もいるでしょう。また、図書館の本は汚してはいけません。しかし、わたしには次のような原則があります。
 「本は汚して読め。汚さなければ自分の本にはならない」

 「印しつけは文章の分析作業です。文章から何をよみとるかという実践です。しかも、読書の記録にもなります。まっさらでしたら、何を読みとったのかわかりません。また、おもしろいことに、印しのつけ方でその人の本の読み方が分かります。文章の何を読み取っているか、どのように文章を理解しているかが足跡として残っているのです。

 「じつは、赤ペンで添削をすることも文章を読んだ証拠です。わたしはていねいに読む本には必ずは印しつけをします。内容の読みとりの場合にはエンピツで、批評的に読むときには赤ペンで印しつけをします。たとえば、今回の学生に要約の課題として出された文章は赤ペンを入れました。ご覧ください。このように徹底的に印しつけをしました。

 「印しつけとは、ていねいに本をよむための一つの手法です。文章をただ目で見ていただけでは内容に集中できません。ですから、文章に操作を加えることによって文の構造を取り出すのです。文の構造を見ることによって文の内容が分かるのです。また、印しをつけた単語をもとに、自分なりの文を組み立てるのです。

 「めんどうだという人がいます。それはまんべんなくつけようとするからです。すべての本を印しつけで読まなくてもいいのです。むずかしそうで読みにくそうな本や、読んでいって読みとりにくい部分になったらつければいいのです。

 「原則となる印しはたくさんはありません。まず、マルセンです。文の骨組の理解です。主部にマルをつけて、述部にセンを引きます。わたしはこれを学生時代にカントやヘーゲルの哲学をよむときやりました。やさしい文章ならつけなくてもわかります。しかし、むずかしい文章には必要です。今は、幸田露伴の『努力論』(岩波文庫)で実行しています。これは内容も形式もおもしろい文章ですよ。主部と述部との印しは初歩の初歩です。
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 「わたしはマルやセンは七文字よりも長くしないという原則を立てています。学校の授業で「そこが大事だから線を引きなさい」と、何行も線を引かせることがあります。それでは、どこが大事なのか絞り切ることができません。ゲーテはすごいこと言っています。「すべてが見える目は何も見えないのと同じことだ」というのです。おもしろいでしょう。すべて線を引いたら、線を引かないのと同じことです。わたしはもっと短く単語に限定してセンを引きます。さらに、よいところには◎や○、わるいところには三角印、疑問の場合には?、などの記号をつけます。(参考画面

 「これも、この学校の添削指導の共通ルールとして使えそうです。三角がついていたら、そこは書き直しをしなさいという印しというのはどうでしょう。添削ではそれ以上に手を入れることはありません。書き手が考え直せばいいことです。また、文が長すぎる時にもセンを引いて「長い」と書けばよいでしょう。その場合も書き直しは書き手です。

 「長くなってネジレた文の書き直しの原則があります。長い文はたいてい、重複文、複文、重文です。それを単文に書き直します。そして、接続語でつないで論理を明確にすることです。どの文章の本を見ても、書かれている原則です。書いてあるけれども、どうやるかは書いてありません。ほかにも、起承転結が大事だと書いてある。しかし、どうやって訓練すればよいかは書かれていません。

 「添削者がするべきことは、重複文、複文、重文を単文に区切ることです。そして、主部と述部とのつながりを読みとります。複雑な文も、基本は主部と述部の組み合わせからできています。単文にすると長くてネジレた文のアイマイさがはっきりしてきます。添削者はこの原理を身にしみるほどしっかりと覚えておくことが大切です。

 「印しつけの原則は、マルでもセンでも、五行六行と長く伸ばして引かないことです。こんな工合です。(板書する)。そして、印しをつけるにはできるだけ柔らかいエンピツを使います。

 「これは出版社にとってもいいことです。「本は綺麗に読みましょう」というと、いつまでたっても本が消耗されません。しかし、わたしの本は古本屋に売れません。「お宅のは、線が引いてありますからね。」と言われてしまいます。「わたしのは消しゴムで消えます。」といっても、「お宅のはね……」と言われます。まちがいなく本が消耗されます。

 「そのかわり、わたしは本を人にあげます。すると、印しを喜んでくれる人もいます。以前に、日本文学の研究者のまとまった本、『片岡良一著作集』を文学の研究者に無料で譲ったことがありますが、そのときには、「印しがたくさんついているので、いろいろと参考になります」といわれました。まあ、これは例外です。

 「接続語と指示語は四角で囲みます。そして、並んだ項目には、センを引いて丸数字をつけていくということは、前にお話ししました。(つづく)

2006年06月03日

文章推敲力を育てる添削入門(17)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことは、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第17回
●抽象化と具体化の論理
 「もうひとつ重要な論理の考え方に、上位概念と下位概念があります。文章の展開では、抽象化と具体化の問題になります。これも対立する接続語の使い方で教育できます。

 「最近ではパソコンを使う人が多いので、パソコンのデータフォルダを例にしましょう。いろいろなファイルを作るとき、それぞれのファイルを、どのフォルダーにおさめるかという考え方です。分類の仕方です。これもいい論理訓練になります。

 「学生たちにはこんなふうに話します。
「君もパソコンを持っているだろう。そのファイルはどのように分類するのかな。フォルダを作って分類をするでしょう。それと同じで、話しをするときにも、今、自分はフォルダーの話をしているのか、中のファイルの話をしているのか、考えるです。それが抽象と具体との関係なんです。」という具合です。

 「また、こんな例もあります。甘いものの好きな人が、「私ね、甘いものが大好きなのです。毎日のように食べていますわ」と言います。ここに「たとえば」をつないだときに話しが分かりやすくなります。「たとえばね、羊羹なんかまるまる一本食べてしまうのですよ」「チョコレートなんか一本まるまる食べしまうのですよ」というのです。これが具体例です。「甘いもの」という抽象が「羊羹」や「チョコレート」で具体化されるのです。

 「話しの構成でも抽象化と具体化が関係あります。わたしもこの講義のためにレジュメを作りました。話すべき事柄を箇条書きの文でどんどん書きました。そのうちに、中心となるが見えてきます。最初に考えた柱ではなく、見えてきた柱で事柄を分類をしました。柱に入った事柄はさらに細かく分けて分類して行きました。柱に入らない事柄は切り捨てるか、あるいは、新たな柱を立てて、事柄を追加してより詳しくします。

 「パソコンで言うなら、事柄がファイル、柱はフォルダです。文章で言うならば、フォルダは章や段落です。書くときにはもちろん、読み取るときにも、フォルダとファイルの意識が重要です。段落というフォルダの中にファイルにあたる命題である文が書き込まれているわけです。抽象と具体の意識です。文のまとまりとして段落が展開するのです。原則は、結論を先に述べて、それから「たとえば」ないしは「なぜなら」を述べることです。

 「添削をする場合にも、このような文章の論理的な組み立てを見ます。また、展開のながれというものもあります。段落の配置と展開とを見ながら、段落に入れるべき事柄や文を判断します。不要なものは削り、必要なものを加えます。文章のながれからみて、別の段落に入れるべきことは前後に移動させます。「添」も「削」も、部分だけ見たら判断できないのです。

 「というわけで、添削というものはなかなかむずかしいということになるのです。以上が文章の何を直すかということです。

●接続語の対立関係
「接続語には対立関係があります。対立する接続語が対になっています。今お話しした「たとえば」の反対は何ですか。「たとえば」は具体化の接続語です。それに対して抽象化の接続語は何でしょうか。「たとえば、羊羹なんかまるまる一本食べてしまいます」といいましたが、その逆の順序で、「チョコレートなんかバレンタインチョコを一日で食べてしまいました」と先に言う言い方があります。その場合には、あとから、「つまり、私は甘いものが好きなのです。」と言うのです。「つまり」なのです。話しが「詰まる」という意味の「つまり」です。

 「おしゃべりの人で話がまとまらない人がよくいますね。喫茶店なんかで話していると、次つぎといろいろなことを並べていくだけで、話しがまとまりません。「羊羹が好き、饅頭が好き、チョコレートが好き、飴が好き」と、同じ種類の話しを何度も繰り返します。ですから、「つまり、甘いものが好きなのですね」といってやればいいのです。相手も「そうです、そうです」ということになります。

 「文章でもこれと同じことが言えます。抽象的に書いていいところと、具体的に書くべきところがあります。とくに重要なのは、具体化してしなければいけないところです。言語表現というものはうっかりすると抽象化する傾向があります。具体化ができてないと、荒っぽい文章になります。自分で文章を書くときにも、人の文章を添削するときにも、文章のながれの中で考えます。「ここは抽象的でいいな、ここは具体的にするべきだな」と判断するのです。(つづく)

2006年05月31日

文章推敲力を育てる添削入門(16)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことは、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(第1回2006.2.21、第2回3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第16回
●接続語への注目

 「説明文や論文は順序どおり緻密に読まなくてもかまいません。飛ばし読みの手がかりになるのが接続語です。接続詞にかぎらず、論理的なつながりを示す接続語については、すべてを拾います。文中に出てきたらば、四角で囲むのです。

 「接続語については、学生諸君のレポートの中で、すごいのがありました。とにかく接続語は並んでいます。しかし、並んでいるだけで論理的な意味が成り立っていません。ただなんとなく並べているのです。訓練をすれば的確に使えるようになります。

 「たとえば、「しかし」という接続語をとってみましょう。一般に逆接だと言われます。「前と後が逆の意味なのだ」というふうに考えられています。そう単純ではありません。たとえば、「私は雨に降られました。」と書きます。「しかし」で、どんな文がつながるでしょう。「しかし、濡れませんでした。」はどうでしょう。「私は雨に降られました。しかし、濡れませんでした。」おかしくありませんね。でも、前と後は逆ではありません。

 「これは聞き手の心理に関係あります。「私は雨に降られました。」と話します。すると、聞いている人は「では、濡れたのでしょうね。」と思います。その後に、「しかし、たまたま傘を持っていたので大丈夫でした。」それが、「しかし」です。つまり、前文から想像することに反する場合、想像に反することが次の文で書かれるとき、「しかし」を使うのです。

 「学生のレポートは接続語を使っているのですが形式だけなのです。内容を表現していないのです。つまり、内容との関連で理解してないのです。ですから、こういう基礎的な接続の使い方が重要です。

 「接続語の問題は国語の試験の定番です。「次の四角の中へあとの部分から選んで適当な接続語を入れなさい。」というのです。日ごろから文章を読むときに、考えて読めばいいのです。これでわたしは補習塾の生徒を説得したのです。「いいか。試験には接続語の問題が必ず出るのだから、文章をよむときにも必ず四角で囲んでおけばいいのだ。」

 「これはたしかに出ました。必ず出るのですから最初から予想して四角をつけておけば点は取れます。そして、接続の関係を読みとることで論理的な読み方の訓練もできるのです。たとえ試験にでなくてもいいのです。結果として生徒の頭がよくなるのですから。試験のあとで「出ただろう」というと、生徒は「出ました」と言って喜んでいました。点数も取れて頭がよくなるのですから一石二鳥です。

●「しかし・それに対して・ただし」
 「まず接続語を意識することが文章の論理訓練のはじまりです。文章トレーニングでは、一つ一つの接続語の使い方を一からやり直すことができます。一般に「しかし」はさまざまな意味で使われています。別の接続語にする方がよい場合もあります。わたしは、対立する事柄が並ぶ場合には、「それに対して」を使います。また、追加的な説明では「ただし」になります。たとえば、「君に百万円をあげる。しかし、明日だ。」はおかしいのです。これは、「しかし」ではありません。「ただし」です。

 「「それに対して」はこんな例になります。「君のお兄さんは勉強できるね。君はできないね。」は、「しかし」ではつながりません。ここの厳密性が重要です。これは、「君のお兄さんは勉強ができるね。それに対して、君はできないね。」という比較なのです。これが「しかし」と「ただし」と「それに対して」のちがいです。これが正確に区別されないと文章の論理もめちゃくちゃになります。

 「ですから、このレポートの学生のようにただ接続語を並べても論理ができていないのです。じつは、わたし自身、論理の訓練は大学に入って論理学を学んで初めて知りました。論理の基本はもっと早く、できれば小学校から教育するべきです。論理教育などというとむずかしいと思うかもしれません。しかし、教育の方法を工夫すればできないことはないのです。問題は教育者の論理教育への関心があるかないかです。関心があればいくらでもできるのです。(つづく)