2007年03月06日

黙読のいろいろ―目黙読・口黙読・耳黙読

 読むというとき、黙読が常識である。だが、黙読といってもいろいろある。わたしはこれまで(1)目(め)よみ(2)音(おん)よみ(3)拾いよみ、と3つに区別してきたが、また、別の区分を考えた。
 次のようなものである。この区別によって、黙読の読み方が変わるだろう。
 (1)目黙読、(2)口黙読、(3)耳黙読
 ひとつずつ、説明しよう。
 (1)目黙読――「めもくどく」と読ませる。読むには目を使うのはもちろんである。(2)も(3)も目を使う。また、頭を使って文や文章の内容も理解するわけだ。だが、今回の区分では、内容の理解については触れない。もっぱら、よみの形式的な面から考えている。さて、これはもっぱら目ばかりに頼って文字を追いかける読み方で、一般の読書はこの読み方である。

 (2)口黙読――「くちもくどく」と読ませる。目の他に、口の周辺の筋肉まで使うのである。声は出さないものの、唇は動くし、舌も動くし、ノドも動く。もっとも重要なのは、声帯の周辺の筋肉の動きである。この読み方に上達すると、実際の発声・発音の訓練になる。しかも、文章の内容の感情表現までともなうのである。旧ソヴィエト連邦の学者ヴィゴツキーという人は、黙読をする人の声帯周辺の筋肉が微妙に活動することを実験で測定しているそうである。

 (3)耳黙読――「みみもくどく」と読ませる。これは(1)(2)の基礎の上に築かれる高度な読みである。自分の黙読の声が耳に聞こえるのである。幻聴ではない。これを「音韻表象」という。つまり、目で文字を見て、微妙に口が動き、さらに耳には、文字の一つ一つの音(オン)が、現実の音声のように明確に意識にのぼるのである。ここまでくれば、しめたもので、あとは発声をするだけである。かつて、棒読みであった音読の声が、まったく別人のようなすばらしい表現となるのである。

 以上、段階的に述べたが、音読を声の表現に高めるには、実際的に声を出してよみあげる訓練が必要である。そうでないと、耳に聞こえる声を自ら確認できない。実際に表現できた声が、発声・発音のときに、目標とするイメージとなるのである。その意味でも、表現よみの訓練をすることが、黙読の力をアップさせるのである。
posted by 渡辺知明 at 09:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 音声表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月31日

『表現よみとは何か』の古書が7500円、8500円!

 表現よみに関するわたしの著書『表現よみとは何か―朗読で楽しむ文学の世界』(1995明治図書)が、amazonで今、7500円、8500円という高額で販売されている。初版1700部で数年前に売り切れている。定価2300円であった。それが、プレミアが付いて販売されるのはうれしいことだ。わたしの手元にも一冊しかない。

『表現よみとは何か』
表現よみとは何か―朗読で楽しむ文学の世界
表現よみとは何か―朗読で楽しむ文学の世界渡辺 知明


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 ところで、この本の刊行は1995年で、そのベースとなった内容は、1980年代にわたしが考えていたことだ。それからもう20年が過ぎている。その後の、わたしの理論と実践の発展は、下記のサイトで分冊パンフレットのかたちで販売をしている。『表現よみのすすめ』(4分冊。各冊平均64ページ。送料共2000円)である。『表現よみとは何か』では、どのようにしたら「朗読」が表現になるかという基礎を論じた。『表現よみのすすめ』は、理論を実践的に発展させて、さらに詳しく具体的に、発声・発音、作品分析の方法としての記号づけなどを論じたものだ。

 現在の表現よみについての理論や実践について知りたい方は、ぜひともこのページにアクセスして、最新のパンフレットをご注文ください。また、出版を検討しようという出版社の方にも無料でお送りしたいと思っている。
posted by 渡辺知明 at 08:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 音声表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月17日

なぜテレビの声はうるさいのか?

 テレビの声はどうして大きくてうるさいのか。以前から疑問に思っていた。今日、その本質的な理由に思い当たった。テレビの声は画像と対立しているのだ。そして、画像とたたかうことを目的としているのだ。

 わたしが言うのは、テレビの技術的な声の大きさではなく、心理的な傾向としての現象である。ラジオと対比するとよくわかるだろう。テレビには常に画像がある。画像と声とを対比した場合、コミュニケーションの手段として圧倒的に強いのが画像である。目を閉じて声を聞いていているときには、情報に集中できていても、いったん目を開けて画像を見たとたんに集中力が失われる。

 テレビ番組の制作者の意識には常に、この画像との対決というものがあるようだ。その一例が、最近のテレビドラマに目立っている効果過剰の音楽である。また、テレビレポーターの語りがやけにテンションが高いのもわかる。事件現場の画像などは、とりたててめずらしいものではない。だから、テンション高く盛り上げなければセンセーショナルに感じられない。同様にアニメの画像にも現実的なリアリティはないから、声優たちは日常的なリアルな声を捨てて異様な声を当てるのである。

 ラジオの場合は、画像がないから、声でイメージを作り上げればいい。ところが、テレビには画像があるから、声で表現する場合には、画像と張りあったうえ、いったんは破壊しなければならないのだ。ということは、テレビの声や語りは破壊のためのものなのだろう。だから、あれほどうるさく感じられるのだ。どんな場合でも、画像を無視することはできない。

 それでは、テレビの声をどうしたらいいのか、わたしはテレビの声に何を望むのか? ラジオのような冷静な落ち着いた声と語りである。しかも、猫なで声のようなソフトさではなく、わたしたち視聴者の日常からかけはなれることのないリアルな声である。とは言ってみても、そんな声がテレビで実現することはないことでしょう。
ラベル: 発声
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2006年12月04日

「ノドアクセント」と「腹アクセント」―強アクセントの2つの種類

 わたしは「日本語のアクセントは高低である」という常識を疑い続けている。そして、強弱アクセントの理論について考えている。高低アクセントの理論では解明できないものがある。それは、音声言語の研究者・杉藤美代子さんのとらえた、「おそ下がり」「早下がり」という現象である。(これについては、わたしの「朗読論」のページを参照)

 しかし、強アクセントの二種類から考えるとかんたんに解明できる。つまり、強アクセントには二種類がある。一つは、ノドアクセント、もう一つが、腹アクセントである。日本語のリズムはこの二つのアクセントで作られている。「ノドでかまえて、腹で決める」という音(オン)の繰り返しである。

 ちなみに、杉藤さんの研究で問題なのは、日本語の日常表現からはなれたアナウンサーのようなよみをサンプルにしたことである。ここからは高低アクセントしかとらえられない。むしろ、日本の伝統的な「語り」の芸能を選ぶべきであった。

 さて、ノドアクセントと腹アクセントとの関係はこうである。ノドアクセントとは、義太夫などで「のどを締めろ」といわれる発声である。口先ではなく、声を呑みこむようにのどの奥で発声する。これは常に腹アクセントの準備として行われる。また、腹アクセントとは、腹から腰の周囲に力が入ってふくらみ、ゆっくりと強い息が出る状態である。

 たとえば、梅(うめ)という音(オン)は、かつては「んめ」ないし「むめ」と発音された。この「ん」「む」がノドアクセントである。そして、「め」には腹アクセントがかかる。これによって、まさにからだ全体、全身を使った音声言語の表現が可能になるのである。

 杉藤さんが問題にした「おそ下がり」とは次のようなものである。「おおさわぎ」は高低アクセントの理論では、「さ」にアクセントがある。ところが、そのあとの「わ」の音(オン)も高く感じられるというのである。それで、この「お」を「おそ下がり」の音(オン)と呼ぶのである。

 同じ語句を強弱アクセントの考えで発音をすればこうなる。二つめの「お」がノドアクセント、「さ」が腹アクセントである。ノドアクセントの「お」の音(オン)が「WO」に近くなるのも伝統的発音の特徴である。つまり「o wo sa wa gi」に近いのである。原則として、ノドアクセントは、高アクセントに変えることはできるが、腹アクセントは高アクセントには変えられない。高アクセントは、軽く鼻に抜ける声で腹の力のないものである。

 杉藤さんの例では、たまたま腹アクセントの音(オン)に高アクセントがきたのである。それで「さ」の音(オン)を高く発音した場合、次の「わ」の音(オン)まで高さを引きずってしまうのである。この語句ひとつ例にしても、高低アクセントにもとづくのと強弱アクセントにもとづくのでは、まるでちがった発音になるのである。ノドアクセントと腹アクセントのちがいは、口をしっかり結んで、からだ全体を使って発音すればわかることである。
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2006年11月12日

第2回京ことばの世界

 2006年11月11日(土)東京の深川江戸資料館小劇場で開かれた「第2回京ことばの世界」を聞いてきた。京都の知人2人が出演したからである。京都のことばの響きは素晴らしい。柔らかな言い回しとイントネーションが心地よいことばである。耳慣れた東京のコトバとは違う響きにうっとりとした2時間であった。しかし、いくつかの点で気になったこともある。

(1)テキストの問題点――話によると、読み手は京都のコトバで書かれた作品を選んで読んでいるのだそうであるが、残念ながら作品に魅力がない。瀬戸内寂聴「枕」、赤江貘「隠れ川」は2作とも、わたしにはおもしろくなかった。さらに努力して京ことばで書かれた名作の発掘をしてほしい。

(2)読み方の問題点――京ことばと銘打っているために、読み手は意識的に声の響のイントネーションを聞かせようとしていたようである。そのために、声の響は伝わるものの、作品のそのものの内容の魅力は感じられなかった。

(3)発声・発音の問題点――高低アクセントと高低イントネーションによるよみであったが、強弱アクセントと強弱イントネーションというものが必要なのではないか。わたしは、アクセントやイントネーションが東と西に分離する以前の古典的なアクセントとイントネーションがあったように思える。わたしは、それを代表的な古典「徒然草」によって研究してみようと思う。

(4)2人の知人は放送劇の考え方から朗読に入った人なので、小説をセリフとト書きとしてとらえていた。セリフは「人物」の役、ト書きはナレーションであった。小説は作品全体が「語り手」によるものである。語り手によって統一されなければならない。小説を台本として演技するのは聞き手の集中力の妨げになった。
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2006年10月27日

アクセントは「平板化」ではなく「虚弱化」している

 東京新聞「言いたい放談」(2006.10.27)で、鴨下信一氏が、最近のアクセントの「平板化」現象について発言している。鴨下氏の発言にはいつもわたしは親しみを感じて読んでいる。今回の発言は、ある番組でベテランアナウンサーが新人の「芝の増上寺」の「芝」のアクセントを訂正したというものである。

 鴨下氏は「この芝を芝刈り機のシバと同じアクセントで読んだ」、「地名の芝はバが下がるのです」と書いている。そうして、「そろそろ真剣に平板化の弊害を言ったほうがいい」と提案している。

 ほかにも、自分がかつて「鞠子」のアクセントをまちがっていたことにも触れている。地元では「子供の名のマリコと同じアクセントで読む」から、それに従うというのだ。

 じつは、わたしは以前から日本語のアクセントは高低よりも強弱であると考えている。そして、最近のアクセントの問題は「平板化」というよりも「虚弱化」であると言いたい。

 「芝の増上寺」のシバの強弱アクセントは「シ」にある。強弱アクセントを赤い太字で示せば「バ」となる。これがなかなか強く読めない。小中学校から日本語の文章を強弱リズムで読んでこなかったからである。力が抜けると「芝刈り機」の「シバ」のように聞こえる。

 高低アクセントは、強弱をつける代わりに声の高低で労力を節約したものである。平板化と言われる現象のほとんどが、強弱のつけられない「虚弱化」なのである。ほかにも、よく聴くのが「梨」の例である。高低アクセントでは、「平板」と言われるが、強弱アクセントでは「ナ」である。「○○梨」というときにはいいが、「梨が」というときには、「シ」に力が入れられずに、「ナガ」とつい「シ」の音(オン)を高くしがちである。

 よく知られる他の例は「熱い思い」の「熱い」である。この強弱アクセントも「アイ」の「ツ」にある。力が抜けると「厚い思い」のアクセントになってしまう。

 アクセントの「虚弱化」への対策は、教育のテーマをもじっていうなら、(1)「息る力」と、(2)「呑みこむ力」である。ここでは要点だけ述べる。(1)腹式の発声で息をコントロールする力、(2)声帯周辺筋を使ったノドの奥での発声方法の訓練である。(わたしのサイト「ことば・言葉・コトバ」を参照)
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2006年08月24日

「死ぬほど退屈な朗読」からの脱出法―『上方芸能』161号

 『上方芸能』161号(2006-9)で、「語り文化はなお高揚するか」という特集をしています。木津川計氏が「語りと『一人語り』試論」という文章を書いています。音声表現のジャンルの「朗読」と「語り」に加えて、「一人語り」という方法提唱しています。

 書き出しは「「死ぬほど退屈」な朗読」ということばで始まります。朗読をしている人には刺激的なことばです。これは、演芸評論家・吉川潮さんのことばだそうです。朗読と舞踊の会についての批評です。およその内容は想像できます。一般の朗読というと、書かれた文章を読み上げるというような非常に演芸的要素の少ないものです。

 木津川氏は朗読と語りについて、平野啓子さんの定義を引用しています。朗読は「読み聞かせも含めて本を心地よく読み伝えるもの」、語りは「基本的に無本です。聴き手に幻想を抱かせながら、演劇にも近いダイナミックな表現ができるもの」としています。どちらについても、木津川氏は、高く評価はしていません。つまり、落語や講談については「話芸」として評価され、朗読や語りについては「話術」として評価されるものだといいます。つまり、朗読や語りは「演芸」としては成り立たないものだと考えているようです。そこから、「一人語り」という独自のジャンルを木津川氏は提唱するのです。

よみから表現への発展
 木津川氏の考える「一人語り」については後で述べることにします。その前に、わたしの考えを述べておきます。わたしは、よむこと自体を発展させることによって、それが芸に近づくという考え方です。そもそも、「朗読」ではなく、「語り」を提唱する人たちは、文章をよむ、作品をよむということを、ごく当たり前のことだと考えているようです。そして、誰にでもできることだと考えているようです。しかし、一口に文章をよむとか作品をよむとかでも、よむことがただ単に書かれた文字をよむ、あるいは書かれた文字を声にするだけのことではありません。

 朗読で取り上げるのは多くが文学作品です。それは、活字となった文字の形をとりますが、そこには作品としての意味があります。文字を声にする事ならばやさしいことでしょう。しかし、作品の意味するものを声にするとなると高度な技術が必要になります。一般の朗読では、このあたりの事情について深く考えられていません。ですから、朗読というと、単に文字を声で読み上げるということに留まってしまうのでしょう。それで「死ぬほど退屈な朗読」が生まれるわけです。

 その困難を乗り越えようとして「語り」というジャンルに移る人もいます。しかし、わたしが聞く限り、本来の「語り」として作品を表現している人はほとんどありません。テキストを持たないだけで、暗記した文章を「朗読」しているだけの語りも多くあります。また、事実、テキストを手にして朗読をする技術と、語る技術とはそれほど大きな差はありません。テキストを手にして語るように読めない人が、テキストを外したからといって語りになるわけではありません。

「一人語り」とは?
 木津川氏は「一人芝居」ではなく「一人語り」というものを提唱します。それはどのようなものでしょうか。いわゆる、「仕方芝居」を例にして説明しています。一人芝居の例としては、新屋英子さんの「身世打鈴」や、イッセー尾形の「都市生活カタログ」です。それに対して、一人語りの代表とされるのがマルセ太郎です。このちがいは、演技者が特定の人物を演じることと、解説や登場人物などのすべてを語る形のちがいです。わたしの考えでは、ブレヒトが叙事詩的演劇の中で論じた交通事故の目撃者の証言に近いような形だと思います。

 わたしが問題だと思うのは、これもやはり芝居にはちがいないように思えることです。すでに、「語り」の芸のジャンルとなっています。わたしが必要だと思うのは、「朗読」の基本である文学作品をよむという最も基本的な技術です。「語り」と「朗読」とでは、すでにジャンルがちがいます。このちがいは、作品のテキストを持つか持たないかではなく、語るべき内容がテキストにあるのか、それとも、語り手の記憶の中にあるのかというだけです。表現された声についての質のちがいが問題にされていません。

 木津川氏は、谷崎潤一郎の「春琴抄」を例に挙げて、ひとり語りの試みを紹介しています。しかし、この方法は「朗読」からはずいぶん離れたものです。文学作品である「春琴抄」を演劇の台本のようにアレンジして、演者に語らせるという方法です。もちろん、このような語り芸があってよいと思います。しかし、わたしが望むのは、「朗読」を基礎にした、文学作品の基本的な理解と解釈に基づいた読みかたなのです。

 「朗読」というものをどのように考えるかということが基本となります。わたしは、文学作品をよむことの基本は、作品の理解と解釈だと思います。たとえ、演劇の台本であろうとも、それが文学作品を原作としたものである場合には、まず第一に作品の読み取りということが必要です。「朗読」は、その意味で文学作品を表現する基本となります。

 木津川氏は提唱した「一人語り」について次のように書いています。
 「生み出さるべき「一人語り」は紛れもなく芸能の範疇に入る新しい形式です。……戦後、メジャーとは言えませんが一人芝居が新しい形式として登場、さらにマイナーですが、朗読と語りが商業的な舞台活動を始めています。」

 そして、マルセ太郎氏については次のように評価しています。
 「少なくとも七〇年代以降、芸能の地平を新たに開拓したケースは映画再現芸という「ひとり語り」で孤軍奮闘したマルセ太郎ひとりしかいないのです。」

「マルセ太郎が教えてくれた方法で、映画を文芸に写し変えれば、「一人語り」はメジャーな形式ではありませんが新鮮な息吹を広く芸能文化にもたらすことでしょう。」

 わたしは、「朗読」について、誰もができて、しかも芸術にまで高まるべき可能性を秘めたものであると考えます。ですから、表現よみについても、「朗読」を芸術として、芸能として鑑賞に堪える域にまで高めることが可能であると考えながら今後とも研究と実践を続けて行くつもりです。
上方芸能 2006年 09月号 [雑誌]
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2006年08月06日

朗読とはどういうことか――朗読から表現よみへ

わたしのBlog表現よみ作品集に、夏目漱石「文鳥」の希望をコメントしてくださった人がいる。アナトーという人だ。わたしは、人から刺激を受けるのが好きなので、さっそく、声の表現についてどんな関心を持っているのか問い合わせをした。そうして帰ってきた内容が音声表現の本質をとらえたものなので大いに刺激になった。ただ、読み流すだけではなく、部分ごとにコメントを加えて考えてみたくなった。

 最初は、音韻表象の問題です。わたしたちは本を黙読していても、じつはイメージの声を聞いているのです。それについて次のように書いています。(太字は引用者がつけました)

「なにかの文学作品(詩でも小説でも)を読む時に、ふつうの人は、まあ、黙読をしてるわけです。で、その黙読した文学作品に感銘を受けたということがあったとします。そのとき、その黙読する読者の頭の中というか心の中では、相当にすぐれた〈朗読〉が行われているはずです。文学作品に感銘を受けるには、単語の意味と文法から、文章を機械的に〈理解〉するだけではダメで、言葉の流れる速さの変化、間、捻れなどを〈聴く〉必要があるわけです。黙読していようと音読していようと、文章を読んで、読者に心理的な変位のようなものが生じるとき、読者は必ず、自身の頭(心)の中で、すぐれた〈朗読〉を聴いています。」

 次に問題になるのは、個々のよみ手がイメージした「声」と、音声の声で聴いた声のイメージが一致するかということです。あるいは、よみ手自身の音声としての声を感じる能力が問題になります。これを音楽の場合で論じています。

「たとえば、相当な音楽家でないかぎり、楽譜を見ただけじゃその音楽の善し悪しはわからない。けれども、実際に音になったものを聴けば、まあ、ふつうの人でも大抵は分かるわけでしょう? 音楽理論的な専門性のある善し悪しというよりも、好悪の意味での善し悪しは、ふつうの人でも、実際にその音楽を聴けばわかる。本当の意味で「楽譜が読める」ということは、楽譜に記された記号を翻訳して頭の中で〈実際に〉音を鳴らせるということです。そして、それは、音楽に対して相当な経験や訓練がなければできない。」

 そうして文章についての音韻のイメージに入ります。一般的には、「朗読はだれでもできる」と思われています。しかし、音楽と同様に、「朗読」の訓練というものも必要なのです。つまり、声のコトバについての目覚めのようなものが必要なのです。志賀直哉は「文学の目覚め」ということを言っています。

 わたしが気になるのは、声が単なる文字を音声化しただけの朗読というものが、まだまだ一般的だということです。アナウンサーが常に冷静を保って原稿をよむように、レポーターは、どんな悲惨な事件の現場でも、常にハシャぎながら語ります。つまり、文字づらを音にして伝えるメッセージと、声に感じられる心情で伝えるメッセージというものは明らかに質のちがうものです。そのあたりについても、アナトーさんの発言は触れています。

「けれど、文章に関して言えば、かなりの人が、文字を読んで、頭の中で〈朗読〉ができてしまう。書かれた文章(記号)を〈翻訳〉して、頭の中で音としての言葉を再現できる。文学好きの人は、この〈翻訳〉作業が巧みで、だから、頭の中ですぐれた〈朗読〉が聞こえる。だから、ますます文学が好きになる。逆に、文学作品を読んでもなかなかピンとこない人は、この〈翻訳〉作業が不得手で、だから頭の中の〈朗読〉も拙いものになりがちで、漱石を読もうが、ビデオの取り扱い説明書を読もうが違いがないことになってしまう。」

 アナトーさんは、ここで文学作品のよみ方と一般の説明文などのよみ方の質のちがいをとらえています。そうして、「本題」として、わたしの実践する表現よみについて、次のように解説してくださいます。じつに的確な表現です。

「渡辺さんの追求されている「表現よみ」というものは、つまりは、この文学好き(少なくとも文学作品に感銘を受けることのできる人たち)の頭(心)の中で、無言のうちに語られる、聞こえないけど聞こえている〈朗読〉を、実際の音声として再現、表現しようとすることだと、そう思いました。楽譜を読んだときに頭の中で鳴っている音楽を、実際に演奏して、実際の音として聴くことで、その音楽の世界をより深く鮮明に体験しようとするのに似ていると思いました。」

 わたしの師である大久保忠利は、「表現よみは舞台の真似をするな、映画の真似をするな。リアルな現実の世界で行われている人間のコトバのやりとりを声で表現るようにしろ」と忠告しました。最初に書いたように、ネットでいろいろな朗読を聴けるようになったが、そこに人間の思いや心情のリアルさを感じるようなものは少ないのが残念である。借り物の「語り口」を真似て作品のを音声化するのではなく、まさに、原作の文体の表現している「語り手」の口調を通じて、その心情や思いを表現したいと思って、わたしはさまざまな作品に挑戦している。

 今、目前にしているのは、表現よみ独演会第10回「特集=おかしな、おかしな、おかしなチェーホフ」である。チェーホフの名訳者・松下裕さんの翻訳で、日本人にも通じる人間の悲喜劇を表現したい。
 
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2006年08月02日

チェーホフを駆り立てたもの―表現よみ独演会に向けて(6)

 9月3日(日)渡辺知明・第10回表現よみ独演会には、『チェーホフ・ユモレスカ』(2006年7月30日刊/新潮社)の翻訳者・松下裕氏が「人を作家に駆り立てるもの」と題してお話しをしてくださることになった。松下氏は筑摩書房のチェーホフ全集を個人で訳した人として貴重な方である。わたしは以前から、この人の訳に注目して、いろいろな作品をよんできた。

 チェーホフの作家としての才能はすばらしいものであるが、作家としてだけでなく、医師としての修行も二十代の前半になしとげている。破産した家の事情などもあったが、そればかりではなく、何がチェーホフを駆り立てたのか―松下氏はその点に強い関心をもっていらっしゃる。

 今、チェーホフの本はなかなか手に入らない。全集は中央公論新社の全集も筑摩書房の四六判全集も文庫版全集も切れている。四六判の一巻が4500円くらいで取引され、文庫でさえ4000円という高値である。近ごろではチェーホフの名をほとんど知らない人たちもいるという。「かもめ」「桜の園」「三人姉妹」などの戯曲の名を一つでも知っていれば、ましだというところだ。好きな外国作家といったら、まずチェーホフの名をあげるわたしとしても悲しい。
チェーホフ・ユモレスカ
チェーホフ・ユモレスカアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ 松下 裕


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2006年07月28日

チェーホフの「作家」批評―表現よみ独演会に向けて(5)

 チェーホフの初期の作品には、パロディのようなかたちの批評作品がある。「批評」作品というのもヘンな言い方だが、一見、ふざけたような書き方なのであるが、それが批評であり、作品としてのおもしろさを生みだしているのである。

 その一例が、わたしが今回の第10回表現よみ独演会「特集=おかしな、おかしな、おかしなチェーホフ」でとりあげる「駆け出し作家の心得」である。十六項目をあげて、まさに新進作家に対して、いろいろな忠告をしているのである。そのひとつひとつになるほどとうなずける。中心は「作家」という職業への批判である。そして、そこから、当時のロシアの文学界のあり方も想像できるのである。

 そして、それは単なる批評ではなく、チェーホフの「語り口」をもった「作品」として成り立っている。そこでは、日本語の翻訳者である松下裕氏の功績というものが大きい。わたしが以前から松下裕訳のチェーホフをよんでいるのも、松下氏の翻訳が、声による表現に適しているからである。今回の『チェーホフ・ユモレスカ』(2006新潮社)も、64編のすべてが、書き出しだけ見ても、声の表現の意欲を呼び起こすものである。
チェーホフ・ユモレスカ
チェーホフ・ユモレスカアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ 松下 裕


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2006年07月26日

朗読のとき「と」をどうよむか?

 ネットでいろいろな朗読を聞いていると、「と」のよみ方が気になる。「と」とは、会話のあとにつづく「と」のことである。

 たとえば、次のような会話につづく「と」である。

  「おまえは何を考えているのだ」と鬼どもは……」

 よみ方としたら2通りある。(1)会話を切りはなして、あとから「と……」とよむよみ方。(2)会話につづけてよんで、「と」のあとで区切るよみ方。

 わたしの経験では、ほとんどの場合、(2)でよんだ方が自然に感じられる。というよりも、(1)のよみ方では、いかにも、書かれた文字を読んでいるというように聞こえるのだ。わたしのよみの理想は、「語るようによむ」ことであるから、(2)がいいのだろう。だが、文字をよむような「朗読」では、あいかわらず(1)のよみ方である。しかも、「と」を地声で明確に発音するので、やけに気になる。「と」を立てることに疑問を感じている人は、そっとよもうとするが、地声でよむかぎり、どうしても目立ってしまう。

 (2)の例外として(1)でよむべきときもある。それは、会話が叫びであったり、断定をしているような場合である。そのときには、「と」の前で区切る。その場合、「と」の発声にコツがある。地声で明確に発音すると、ヘンに目立ったり、「と」の音をリキんでしまったりする。それを避けるためには、「と」の音をウラ声で発音するのである。息が8割、声が2割のウラ声である。そうすると、「と」がまったく気にならずに、会話と地の文とが自然な感じでつながる。
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2006年07月25日

チェーホフの細やかな人物描写―表現よみ独演会に向けて(4)

 9月3日(日)渡辺知明・表現よみ独演会第10回「特集=おかしな、おかしな、おかしなチェーホフ!」のプログラムが決まった。チラシをPDFでつくったので、ご覧になって頂きたい。(第10回独演会チラシPDF)

 チェーホフの人物描写がじつに繊細であることがわかるのが「ポーリニカ」である。小間物やの店員が店のお嬢さんと応対をしながら、恋愛についてのもつれについて話をするだけの作品である。それなのに、そのやりとりから、それぞれの人物と、娘の恋愛相手の大学生たちの人物が浮かび上がってくる。

 フロベールの「ポヴァリー夫人」のなかに、「共進会」(競り売りの市場?)の会場で男女が対話を交わす場面があった。そこでは、競り売りのかけ声の間にはさまって男女の会話が書かれていた。そこから、情景と人物の複合的なようすが目に浮かんだ。チェーホフの作品も、それとどうようの文学のコトバのやりとりのおもしろが感じられる。
チェーホフ・ユモレスカ
チェーホフ・ユモレスカアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ 松下 裕


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2006年07月23日

チェーホフの描くプロンプターの悲喜劇―表現よみ独演会に向けて(3)

 引き続き、今、準備している9月3日(日)の表現よみ独演会第10回「特集=おかしな、おかしな、おかしなチェーホフ」に向けての話題である。今月末、刊行される『チェーホフ・ユモレスカ』(松下裕訳/新潮社)でまたおもしろし作品を発見した。

 「男爵」である。主人公は「男爵」とよばれるプロンプターである。若いときには役者をめざしたこともある人物が、今ではプロンプターの仕事をしている。だが、舞台にあがる下手な役者たちが不満で、ついつい口を出してしまうのである。「ハムレット」の舞台ではとうとう……。というのがこのドラマである。

 シラノ・ド・ベルジュラックのようなキャラクターであるが、チェーホフ自身が「かもめ」のコースチャに語らせた当時の演劇に対する批評とも重なるであろう。
チェーホフ・ユモレスカ
チェーホフ・ユモレスカアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ 松下 裕


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2006年07月22日

チェーホフと梶井基次郎―表現よみ独演会に向けて(2)

 今、9月3日(日)に開催する表現よみ独演会第10回「特集=おかしな、おかしな、おかしなチェーホフ」に向けて、『チェーホフ・ユモレスカ』(松下裕訳/新潮社)から、作品の選択をしている。「鶯の顔見せ興行」という作品がある。ごく短いものだが、すばらしい。

 ロシア文学でいうならツルゲーネフのような叙情的な作品である。ただ、鶯の鳴き声を聞きに行ったという話であるが、松下裕氏の名訳によって鳥たちのさまざまな鳴き声が聞こえてくるような気がする。

 チェーホフはこの作品に「音楽批評」というサブタイトルをつけている。 この作品は日本の作家でいうなら梶井基次郎の世界だろう。チェーホフのユーモア作品を集めた新刊から、梶井のような作品を発見するとは意外であった。だが、チェーホフの文学的な世界の広がりというものにますます魅力を感じるようになった。

チェーホフ・ユモレスカ
チェーホフ・ユモレスカアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ 松下 裕


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2006年07月20日

日本コトバの会の第6回表現よみフェスティバル

 日本コトバの会の表現よみフェスティバル第6回は、 2006年12月2日(土)午後、獨協大学での開催が決まった。今回も昨年につづき全体は3部構成だ。第1部が参加者による課題作品の発表、 第2部が表現よみの記号づけを基礎にした実習、第3部が実習にもとづくよみの発表である。

 課題作品は、芥川龍之介「」、夏目漱石「坊っちゃん」、 樋口一葉「十三夜」の3作品である。参加者の方法としては、よみの発表と実習の組み合わせのほか、 実習のみでも受け付ける。申込み締切は、11月15日(水)、日本コトバの会宛に、メール、FAXなどで申し込む。 詳しくは下記のサイトで見られる。

 http://www.ne.jp/asahi/kotoba/tomo/festival2006.htm

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2006年07月16日

渡辺知明・表現よみ独演会「特集=おかしな、おかしな、おかしなチェーホフ」に向けて(1)

 わたしの表現よみ独演会は9月3日(日)に第10回を迎える。以前から、いくつかチェーホフの作品をよんできたが、この度、翻訳者・松下裕氏の『チェーホフ・ユモレスカ』 (2006年7月刊/新潮社)が出版されるのをきっかけに、口演許可の申し出をしたら、「チェーホフばかりよんだらどうか」というありがたいご返事をいただいた。10回というきりのいい時期に、わたしの大好きなチェーホフを存分によめるというのはありがたいことだ。そのうえ、松下氏からチェーホフのお話しをしてもいいとの申し出もいただいた。

 というわけで、急遽、「おかしなおかしなチェーホフ」特集として、今日から準備に取りかかることにした。候補作品には、2006年4月号『新潮』にチェーホフ未邦訳短篇集」として掲載された作品をはじめとして次のようなものを考えている。「パパ」 「小説の中で一番たくさん出くわすものは」「ヴァラエティ・ショールーム(本邦初訳)」「ついてない訪問」「男爵」「善意の知り合い」「復讐」「辛辣な出来事」「自分の祖国の愛国者」「年に一度」「鶯の顔見せ興行「農奴あがり」「幌馬車で」「女の復讐」 「ヴォードビル」「駆け出し作家の心得」「変人」「ポーリニカ」。

 わたしは2001年に、シアターΧ(カイ)主催のチェーホフ演劇祭の舞台で、「すぐり」と「黒衣の僧」をよんだ。このとき出合った翻訳が松下裕氏のものであった。それ以来、チェーホフの作品というと松下氏のものを選んだ。もっともポピュラーであったちくま文庫版の全集が、今は絶版になっているのが残念である。ネットの「復刊ドットコム」の投票では、すでに復刊交渉予定本の中に入っているので、いい結果が出ればと思っている。  さて、独演会のチェーホフ作品の経過については、今後、ここで継続的にお知らせをしていく予定である。注目ください。 

posted by 渡辺知明 at 11:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 音声表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月27日

ネットでの「朗読・聴きくらべ」

 お話しPodの広場というサイトで、ネットで聴ける朗読作品の聴きくらべという企画を始めている。これまで、芥川龍之介「蜘蛛の糸」と宮沢賢治<「セロ弾きのゴーシュ」について公開された。

 わたしもこれまでネットでさまざまな朗読を聴きくらべてきたが、こうしてまとめともらえると、いろいろと比較しながら聴くことができる。

 以前から、CDや朗読作品の販売のときに、試聴できるような仕組みを提案してきた。また、よみ手がだれであるか明確に表示することも提案してきた。音声の場合、少しでも試聴できないと不安はつきまとう。というのは、聴き手はただたんに、作品のデータを聴きたいのではなく、よみの色合いのようなものを求めているからだ。

 これを機会に、今、試聴なしで音声ファイルを販売しているさまざまな会社が、必ず試聴用のファイルを準備してくれるようになるといいと思う。
posted by 渡辺知明 at 20:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 音声表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月24日

読み聞かせなどの著作権問題

2006年5月12日に、児童書四者懇談会という出版業界が「お話会・読み聞かせ団体等による著作物の利用について」という見解を公開している。最近、読み聞かせや朗読などの会が盛んになっていることへの反応だろう。

 また、ネットでも、さまざまな作品をよんで公開するという音声ブログが盛んになってきた。わたしは、そもそも声による表現は、著作そのもののコピーや再現ではないと考えるので、もっと自由に声が公開されることを期待している。そのために、今回の見解についても、朗読の自由というものを実現するうえでどのような意味があるかを考えてみたい。

 その中で、「6非営利の上演等」という項目について、こうしたら著作権を気にせずに、さまざまな活動ができるというヒントになるようなよみ方をしたい。

 まずは、前提となる「著作権法」の「第38条非営利の上演等(上演、演奏、上映、口述、読み聞かせ等)」の原則である。
 「●営利を目的とせず、かつ観客から料金を受けず、かつ実演・口述する人(児童書を朗読する人)に報酬が支払われない場合に限り無許可で利用できる。なお、本手引きにおいては、下記で○をつけた経費に充当するために観客から料金を受ける場合について無許可での利用を認める。ただし、経費はすべて実費程度とする。」

 (1)非営利、(2)料金徴収なし、(3)よみ手の報酬なし、の三つの条件がある場合、無許可で自由に著作がよめるというわけである。

 さらに次のように具体的な場合が示される。上の条件に含まれるものは○、含まれないものは×がつけられている。〔 〕内はわたしのコメント。

 ○実演・口述する人への交通費の支払い、昼食・弁当の支給
 ×実演・口述する人への報酬・謝金の支払い
〔要するに、「出演料」「謝金」ではなく「交通費」「昼食代」などはいい〕

 ○会場費・会場運営費(電気代)〔「入場料」は取れないわけだ〕
 ○観客へ配る資料費、お菓子・ジュース代〔「資料代」「お菓子代」はよし〕
 ○主催者・ボランティア・アルバイトの交通費、昼食・弁当代
 ×主催者の人件費、アルバイト代〔主催者は実演・口述者とは別の人だ〕

 さらに次のようなことも△として認められている。
 △その他やむを得ず観客から料金の徴収を要する経費

 以上のようなことを考慮したら、いろいろなお金がかかる場合でも、著作権などの許可を考えずに、お話し会や朗読会が開催できるわけである。ありがたいことだ。
(この記事執筆後に「著作権(絵本)」(悠法律事務所―弁護士の雑記帳)という記事を見つけました。参照=著作権についてのわたしの考え)
posted by 渡辺知明 at 12:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 音声表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月23日

「お話しPod」がスタート

 朗読専門のポッドキャスティングのサイト「お話しPod」がスタートした。わたしも一室を借りて「お話しPod/表現よみ作品」を開設した。

 ポッドキャスティングにはいろいろあるが、朗読専門のサイトというのはめずらしいだろう。というよりも、ポッドキャスティングと一口に言ってもさまざまなジャンルがあるのだ。その中から、朗読という専門が独立するのも当然のことだろう。さまざまなポッドキャスティングが登場すれば、自分の好みの分野を選びたくなるのは当然である。

 「お話しPod」のひとつの特徴は「お話しPodの広場」という番組だ。管理人が日本全国のさまざまな朗読から、すぐれたよみをコメント付で紹介するというものだ。まだ、スタートしたばかりなので、今後、どんなよみ手が登場するのか興味がある。

 数年前の「声で読む日本語のブーム」は、「だれでも読める」というものであった。それによって多くのよみ手が生まれた。だが、目指すものがなければ朗読も退屈になる。文字が読めれば朗読は完成というものではない。次の段階はよりよい表現としての朗読であろう。「お話しPodの広場」という番組には、今後の朗読の質の向上に貢献することを期待したい。(なお、「お話しPod」へに音声ブログを登録メールを送るとリンクや紹介の対象になる)
posted by 渡辺知明 at 14:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 音声表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月18日

「お話しPod」とデジタルラジオ「ことだま」

 eブックランドという電子ブックの自費出版のサイトで、朗読専門ポッドキャスティング「お話しPod」の案内とデジタルラジオ「ことだま」設立の趣旨が公開されている。わたしの主宰するコトバ表現研究所とeブックランドとの共同の企画で、朗読専門のポッドキャスティングのサイトを開始するのである。

 わたしが「ケロログ」でポッドキャスティング「Blog表現よみ作品集」を始めてから一年半になる。最初のころには、ほとんど知られてなかったが、今年に入ってずいぶん盛んになった。しかし、インターネットとはゴミの山などというスローガンがかつてあったように、ポッドキャスティングについても玉石混淆である。それだけ大ぜいの人が気軽に参加できるようになったということかもしれない。

 ただ、わたしが「お話しPod」の効果として期待しているのは、声のコトバというものの表現性の認識である。声が意味としての情報を伝えるばかりではなく、声そのものが表現なのだ。とくに、文学作品の場合に、それが顕著になる。つまり、文学作品の文字の情報を伝えるばかりではなく、文体あるいは「語り口」というものが声によって初めて明確になるのだ。

 さらに、「お話しPod」のポッドキャスティングは、今後に予想されるデジタルラジオの放送に「朗読」の取り入れを推進することを目指している。コトバの乱れや日本語の崩壊などが叫ばれる今日、あらためて日本語、とくに音声言語のもつ豊かさや魅力について知らせる場となることも考えている。

 朗読に関心のある方、声の日本語の文化の復活を望む方がたには、デジタルラジオ「ことだま」の発起人として声をあげていただきたい。
posted by 渡辺知明 at 12:21| Comment(0) | TrackBack(1) | 音声表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする