2007年10月04日

「朗読賞」は成り立つか?

 「お話しPod&ラジオデイズ朗読賞2007」の募集がスタートしている。お話しPodラジオデイズに、募集要項がアップされている。

 ところで、朗読の良し悪しというものは評価できるのだろうか。
朗読がただ単に声に出してよむという行為であるなら、それはどうでもいいかも知れない。しかし、書かれた文字を声にすることは、一種の表現になるわけだ。良し悪しでなくても、好き嫌いでもいいが、それも評価の一種になる。

 ここ数年、朗読はブームになりかけた。だが、すぐに頭打ちになった。というのも、朗読の良し悪しというものが問われなかったからだ。頂点ともいえる到達目標があれば、その高みを目指して精進するという可能性も出てくる。だが、「そんなこと、だれでもできるよ」というものであるなら、すぐに熱は冷めるであろう。

 声に出してよむという行為を一括して「音読」という。音読にもいろいろある。その表現性を軸にすると、次のような並びになるだろう。

  音声訳(音訳)→朗読→表現よみ→語り

 わたしはさらに文字の音声化の原理としてのよみを付け加えたい。それは、今、わたしが「表現よみ」として実践しているものである。作品の音声化ということではなく、この理念が、文字言語と音声言語を媒介するものだろうと考え始めている。

 実践的な表現よみを表現よみ1というなら、これは表現よみ2と呼びたい。じつは、朗読の評価というものも、この理念を基礎にしないと出てこないものなのである。

 そんなむずかしいことを言ってみても、具体的な朗読は個々人のよみによってしか表現されないのである。応募作品はすべてお話しPodでポッドキャスティングされるということなので、朗読賞の盛り上がりが楽しみだ。これまでに聞けなかったような声の表現が登場することを期待している。
posted by 渡辺知明 at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 音声表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月01日

古典文学には強弱アクセントが必要だ

 わたしの提唱する表現よみの方法で、いくつかの古典文学のよみにとりくんでいる。参考にしているのは、藤井貞和『古典の読み方』(講談社学術文庫)である。藤井氏は、古典文学の解釈で重要なのは、助動詞と助詞であると書いている。
古典の読み方 (講談社学術文庫)
古典の読み方 (講談社学術文庫)藤井 貞和

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 また、次のように耳でよむことの重要さをあげている。
「現代人は、文字を読むことが普通のことになっているために、文学が、もともと耳で理解されるためのものであり、文字というものは、仮に紙の上に書き表したものであること、だから文字で書かれていても、それは聴覚の世界へ引き戻して読まれるべきものだ、という大原則を忘れがちである。」(82ページ)

 わたしは、さらに強弱アクセントを聴くことの重要性を加えたい。藤井氏があげている、助動詞「なり」については、伝聞と断定の二つの区別がある。この区別は、文字づらからは判断できない。伝聞の場合は「り」にアクセントがつく。断定の場合は「なり」となる。

 藤井氏の解説の「なり」について強アクセントを太字の赤色で表示すれば次のようになる。

「伝聞の「な」は活用する語の終止形につく。活用する語が終止形と連体形とでかたちがちがうばあいには、伝聞の「な」か断定の「り」か、一目瞭然である。活用する語が終止形と連体形と同じかたちの場合、「なり」は伝聞のそれか、断定のそれか、外見からの判定ができない。」

 この場合、断定のアクセントは高低でもつけられるが、伝聞の「り」には高低アクセントではつけられないのである。どうしても強弱アクセントが必要になる。現代文の伝聞「そうだ」も高低アクセントで「そうだ」と「そ」を高くするのなく、「だ」を強アクセントにして下げないと発話者の実感が表現できない。

 古典文においては、見かけによる意味の区別だけではなく、音声としての区別までが重要である。そのためには、声の表現による確認が必要なのである。
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2007年09月22日

「お話しPod&ラジオデイズ朗読賞2007」の募集がスタート!

 画期的な賞がスタートした。「お話しPod&ラジオデイズ朗読賞2007」だ。ここ3年くらい、朗読のポッドキャスティングが盛んになったが、いわば玉石混淆というぐあいだった。まずは、「あなたも録音して、みんなに聴いてもらいましょう」というところからのスタートだった。

 だが、賞が制定されるということによって、おのずから評価が問題になってくる。いったい、どのようなよみがいいのか。また、どんなよみが人々に楽しみをあたえるのか、といったものである。一年ほど前、「朗読に金を出して買うか?」というアンケートがあったが、80%の人が「買わない」と答えていた。売れる朗読とは何かにもつながるイベントだろう。

 これまで、朗読の賞で全国的なものは、わたしの知る限り二つしかない。一つは、ドイツ菓子の会社ユーハイムが主催する「ゲーテの詩朗読コンテスト」で、毎年、夏に一度開催され、今も続いている。もう一つは、日本コトバの会が1994年から年に一度7回行った「表現よみコンテスト」である。これは8回目の2001年からは「表現よみフェスティバル」として、毎年12月に独協大学で、音声表現の学習を重視するイベントへと発展している。

 そうして、今回、ネットを経由しての朗読賞の開催となるわけだが、いったいどれだけの応募があり、どれだけの盛り上がりを見せるか、わたしの期待は大きい。朗読というものが、日本のコトバの文化として、どのように進むかを考える一つのきっかけになるだろう。

 「お話しPod&ラジオデイズ朗読賞2007」募集要項は、お話しPodラジオデイズのサイトで見られる。
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2007年09月16日

高田渡・若林ケン・忌野清志郎の「生きたコトバ」

 今、わたしが関心ある3人の歌い手である。音声表現の一分野として、これらの人たちの歌い方に感心がある。どの人も「朗読」をさせたら、すばらしい表現をすることだろう。だが、この3人の人たちの名を知っている人たちが、今の日本にどれだけいるのだろうか。

 高田渡はかつて1960年代の終わりから、「自衛隊に入ろう」というフォークソングで話題になった。その後、山之口貘などの詩を歌ってきた。そして、2005年に亡くなった。
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ファーストアルバム ごあいさつ(紙ジャケット仕様)高田渡

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 若林ケンはつい最近、61歳でCDデビューをしたシャンソン歌手だ。わたしの好きな歌手・アダモの歌声をさらに力強くしたような歌い方をする。シャンソンに日本の伝統的な発声が加味された歌唱法ともいえそうだ。この人の歌を聴くと、これまでの日本のシャンソンは何だったのかという気がする。
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花束~Bouquet de CHANSON~若林ケン

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 そして、忌野清志郎は70年ころからロック歌手として長く歌い続けている。日本語でロックを歌うということにこだわってきた。最近、病気で休んでいるようだが、若い人たちにも人気があるようだ。
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 この3人に共通することは、その声が意味のあるコトバとして聴き手に届くということだ。発声や歌唱法などは三人三様である。だが、どんなコトバを発しても明確な意味を持つのである。歌をメロディー優先のジャンルとしたら、3人とも評価は下がるだろう。だが、人の心に感動をあたえる歌としたらすばらしいものだ。

 たとえば、忌野清志郎が「僕は……」と一声発したとき、わたしの心は、一瞬にして引きつけられてしまう。ほかの二人のコトバも同様である。だが、三人ともマイナーであるということは、芸術家は常にマイナーであるということの証明なのかもしれない。

 たしかに、世の中には、心に響いて入りこんでくるコトバをうるさく感じる人もいるのかもしれない。もしかして、そう感じる人は、社会から痛めつけられてすっきり気力を失っている人なのかも知れない。わたしは、むしろ、そんな人たちこそ、この3人の歌を聞くことで元気を回復できるのではないかと思うのである。
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2007年09月15日

声は届いているか、コトバは届いているか?

 昨夜、テレビである演劇の舞台を見た。男女の往復書簡を舞台化したものだった。見ていて、というよりも聞いていて、違和感を抱いた。こんな台詞回しで、人間の感情や思いが聴き手に届くのだろうか。

 演技者たちは、今の日本ではいわば一流と呼ばれる人たちである。ところが、そのコトバからはまったく人間の存在感が感じられない。いわゆる新劇調というものである。そのようなコトバと声の響きが今の日本では常識になっているようである。

 それと同様に朗読や「語り」といった音声表現のジャンルでも、生きていないコトバ、生きていない声に満ちあふれている。一般には人の心に食い入らないコトバであっても、文字づらの意味さえ伝えればいいといわんばかりである。

 だが、コトバの深い意味は文字づらにあるのではない。個別のひとから個別のひとに、なんらかの意味あることを伝えるためには、どうしても音声化されたコトバ、音声のイメージを抱えたコトバでなければならない。

 文学の世界では、「語り口」や文体の感じられる作品がなくなっている。まるで新聞記事のように規格化されたひとの声の響きの感じられない作品がほとんどである。もともと言語は音声として生まれたものだ。それがたまたま文字の発明によって、いわば冷凍保存されて記録され、遠方に送られるようになった。

 1970年代に無農薬の食品や自然食、健康食のブームが始まったが、30年以上かかって、最近やっと常識のようになった。ジュースも濃縮還元ではなく、天然果汁のうまさが見直されてる。

 言語表現についても、冷凍保存や真空パック詰めではないものがほしい。それは生きたコトバだ。新鮮でなければならない。だが、それは日持ちしないものだ。だからこそ、日々の変化と発展をめざすのだ。
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2007年08月25日

音声表現の哲学としての表現よみ理論

 「表現よみと朗読の関係はどういうものですか?」としばしば尋ねられる。これまでは、「音声表現の一種で朗読の仲間です」と答えていた。しかし、最近、もっと広く音声表現の哲学とでもいうような位置にあると思うようになった。図にすれば次のようなものになる。(表現よみ01は総合ジャンル、表現よみ02は実践ジャンル、に区別される)

                 (1)朗読―音読・朗読・表現よみ02……
  音声表現の総合理論―(2)語り―落語・講談・「語り」……
  (=表現よみ01)    (3)演技―演劇・新劇・芝居……
                 (4)生活―対話・スピーチ・講演……

 なんと大それたことを言うのかと思われるかも知れない。しかし、わたしの知る限り、日本には音声表現を総合するような理論はない。それどころか、音声表現の代表である朗読でも、文字を音(オン)にする理論はあっても、文や作品を音声化するための理論はほとんどない。それがあれば、朗読も音声化の技術ではなく、表現になれるのである。

 今、表現よみでは、文学作品をテキストとして研究と実践をしているが、この成果は朗読の表現に限られない。「語り」や演劇などの基礎的な訓練として必要不可欠なものなのである。その基盤となる音声言語は日常生活にある。そこにおける様ざまな言語表現が基礎となって(1)から(3)までの芸術ジャンルが磨き上げられるのである。

 音声言語の表現を考えるとき、総合的な視野が必要である。日常の音声言語のさまざまな言語ジャンルを総合的にとらえて、どんな言語ジャンルがどんな芸術ジャンルに生かされるのかという総合的な視野である。わたしの知る限り、このような視野を持った研究と実践は、表現よみ理論において可能なのだ。他の実践ジャンルは、すでに特定化され、限定化された言語ジャンルとなっている。その視野はせまい。そこからでは、音声言語のジャンルの広がりを見通すことはできないのだ。

 今のところ表現よみの実践はテキストをよむことを基本としているが、その発展として「語り」や「演技」への道が開かれることはまちがいない。そして、一般の人たちにとっては、何よりも(4)日常生活における言語能力の向上という有意義な効果があるのだ。【参考】『Web表現よみ入門』
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2007年08月21日

朗読の疑問―題が先か作者が先か?

 作品を朗読するとき、題名が先か、作者が先かという疑問がある。

 それ以前に、作品を読むときに、タイトルと作者名を言うか言わないかという問題もある。わたしは「言う派」である。理由は二つ、一つはよみ手自身にとって心構えができるということ、二つは聴き手にとっての心構えである。もちろん、読み手にとっての意義が前提である。

 さて、タイトルの言い方である。たとえば、芥川龍之介「鼻」の場合、次のような3通りの名乗りがある。

 (1)「「鼻」、芥川龍之介」
 (2)「芥川龍之介著、「鼻」」
 (3)「芥川龍之介作、「鼻」」

 朗読の場合、(1)が一般的である。この心は「私は芥川龍之介が書いた「鼻」という作品を読みます」となる。書かれた原稿をイメージすれば、この通りに書かれているだろう。つまり芥川龍之介の原稿を読み上げますという態度が表現されている。

 これよりも読み上げに近いのは(2)である。出版された作品のタイトルはまさにこのような形である。(1)が原稿を読むのに対して、(2)の「著」はを読むという態度になる。だが、どちらも「書いたものを読み上げる」という態度は共通している。(ちなみに、岩波文庫では、フィクションの作品では「(作家名)作」、ノンフィクションの作品は「(作家名)著」と明確に区別している)

 わたしは一貫して(3)である。芥川龍之介作の「作」は何を対象として読むかという問題だ。原稿でもなく、本でもないのである。「作」というときには、文章や書物という形式的な手段を通じて表現された「鼻」の世界である。ここに作品の文章を読むのではなく、表現された作品そのものを声にするという気構えがあるのだ。

 こんな細かいところにこだわらなくてもいいじゃないか、と思われるかもしれない。しかし、朗読を音声表現の1ジャンルへと発展させようと、わたしはこんなところでも主張しているのだ。
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2007年08月13日

朗読から表現よみへ=第13回表現よみオーの会公演

 朗読から表現よみへと、音声表現を目指す表現よみオーの会が、下記のような内容で第13回の公演を開く。わたしも「吾輩は猫である」をよむ。文学作品の「語り口」を表現することによって、どのように作品が音声化されるのか、そのあたりをぜひお聴きいただきたい。【参考】『Web表現よみ入門』

◎第13回 表現よみO(オー)の会
声による文学の表現
―日本文学の名作をよむ―

牛   人」中島 敦…………馬場 暎子
古   都」川端康成…………白銀由布子
橋づくし」三島由紀夫………石田 淑子
愛   撫」梶井基次郎………西沢 文子
「    」森 鴎外…………山口 葉子
悟浄歎異」 中島 敦………佐藤 絹代
吾輩は猫である」夏目漱石…渡辺 知明

と き:2007年9月2日(日) 開場2:00 開演2:30 終演4:45
ところニューオータニイン東京(JR大崎駅東口前)「かえで」
料 金:前売1,500円(当日1,800円/60席限定)
■チケットのお申し込みとお問い合わせは、メールで渡辺知明へどうぞ。
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2007年08月05日

ジャック・デリダと「聞き手ゼロ」の朗読理論

 わたしの表現よみにおける師である大久保忠利は、かつて朗読に対して「聞き手ゼロ」を提唱した。それが今になってますます意義のあることと思うようになった。

 というのは、さまざまな朗読や「語り」や舞台の演技などの声を聴いたとき、気になるのは、どこまでも文章を読んでいる感じ、人に聴かせているために声の表現が空虚になっている感じがすることだ。そのいい例が外国映画の吹き替えである。友近さんが演ずるところのキャサリンの声のしらじらしさは、そんな吹き替えに対する批評である。多くの朗読や「語り」も似たようなものなのである。

 つまり、声の表現が発信者のもとにとどまることなく、聞き手に押し出されているのである。声と発信者のあいだに何か隔絶した一線が引かれている感じなのだ。今になって、大久保氏が「聞き手ゼロ」といったのは、このような声に対する批評であったのだと思う。それが表現よみというよみ方の提案となったのだ。「舞台や映画のセリフのやりとりをマネるな」とは繰り返し言われた忠告だ。「日常のリアルな人と人とのやりとりを表現せよ」とも言われた。

 最近、ジャック・デリダ『声と現象』(2005ちくま学芸文庫/林好雄訳)を読んでいる。デリダがフッサールの本を批評的によんで解釈するものである。むずかしい内容でなかなか意味がつかめないのだが、記号としての言語のはたらきを、伝達と表現とに分けているようだ。そして、伝達の声と表現の声とのちがいを解明しようとしているらしい。
声と現象
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 伝達の声が聞き手に伝えるものであるのに対して、表現の声は独り言のように発声者みずからが、みずからに聴かせるような声だという。それは人に意味あることを伝えようとする声ではないというようなことを書いている、らしい。――と、わたしには「らしい」つきでないと語れないのだが、おぼろげながら声の「表現」というものの特質が見えてくる。

 そして、わたしの関心は、文字や文章を読み上げるのではなく、まさに自らの声を表現とするような身体的な訓練がどのようにして実現できるのかというところにある。このレベルからいうと、既成の朗読や演技などの声の表現の99パーセントが表現にはなっていないと思われる。

 もしも、デリダにくわしい方がいて、言語と声の関係についていろいろとご教示くだされば幸いである。
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2007年07月24日

朗読の聴き方―「と」と「が」の表現力

 朗読を聴いていて気になるのが「と」と「が」です。朗読の理想として「語るように読みたい」とはよく言われます。しかし、どこをどのように読んだら語るように聞こえるかについてはほとんど聞きません。

 わたしは朗読を聞くときのよみ手の評価規準として「と」と「が」に注目します。この二つのよみ方でよみ手のよみのレベルが評価できるほど重要なのです。

 「と」というのは会話のあとに続く助詞です。たとえば、次のような場合です。

 「また来ましたね」と先生は言った。(こころ/夏目漱石)

 「と」のよみ方で二つの点が問題です。一つは、声質、もう一つは、区切り方です。声質については、「と」が目立つようなよみ方ではいかにも読んでいるように聞こえます。おもしろくありません。「と」は裏声で飲み込んで間合いのようにしたいものです。義太夫でいうところの「強い裏声」です。(米山文明『美しい声で日本語を話す』2007平凡社新書97ページ)
美しい声で日本語を話す (平凡社新書 (377))
美しい声で日本語を話す (平凡社新書 (377))米山 文明


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 そして、もう一つ、「と」の区切り方には三通りあります。(1)「と」の前で切る。(2)「と」の後で切る。(3)「と」の前後で切る――わたしの経験では、(1)は10%、(2)が85%、(3)が5%くらいの割合です。つまり、ほとんど、「と」の後で切ればよいのです。そうすると、読んでいるように聞こえなくなります。

 ちなみに、上の「こころ」の例は(1)で読みます。(1)は会話が感情的に高いとき、強い調子で終わるとき、叫びや呼びかけなどの場合です。ですから、なおさら「と」が「強い裏声」で耳には響かないように、間合いとしての強さを表現してもらいたいものです。

 「が」とは、接続語の「が」のことです。たとえば、次のような例です。

 が、女は馬も下りずに、待っているというのです。(藪の中/芥川龍之介)

 「が」は鼻濁音です。鼻濁音はたいていアクセントをつけて読まれる強い音(オン)です。強さを秘めているが故に柔らかい当たりを要求されるのです。それで鼻にかけてソフトな音(オン)に響かせます。力を入れつつ、うるさくない声にするのがむずかしいのです。だから「が」のよみ方が、読みのテクニックの評価規準になるのです。

 これは接続助詞の「が」です。よみ方は強アクセントをつけて「(ん)が」というように読みます。そして、「(ん)が女は」までは続けて読みます。その後で切ります。「ん」の声は聞こえません。声の背後で表現の強さを支えます。演歌で言う「タメ」にあたる力の入れ方です。

 さて、以上のようなことを意識して朗読を聞いてみてください。「と」と「が」のよみ方だけ聞いも、よみ手にどのくらい表現力があるか評価できると思います。
posted by 渡辺知明 at 18:03| Comment(0) | TrackBack(1) | 音声表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月04日

『Web表現よみ入門』―表現よみの総合案内

 新しいパソコンを買ったので古いパソコンデータを見直していたら、4年前に書いた表現よみ入門のフレーム版のページが出てきた。すでに、『表現よみ理論入門』は公開して1万5千以上のアクセスをもらい、さらにパンフレット版も希望者には頒布している。

 それでも、今回発見したものは、左側3分の1にもくじ、右側3分の2が本文という形式でなかなか読みやすい。それで、内容としては古いものの、この形式を生かして書き直そうと考えた。2007年6月11日から『Web表現よみ入門』として公開している。

 おもしろいことに、古い内容に対して書き込むことで、また新しい発想が生まれる。わたしが現在、表現よみオーの会で実践している最先端の理論や実践についても書き込んでいる。だから、このページは常に発展中になり、完成することがないだろう。

 また、意識的にわたしが影響を受けた方がたの著作やサイトなどをリンクして、このページが表現よみの理論と周辺の理論との交流の場にもなりそうな気がしている。今のところ、オーラル・インタープリテーションの近江誠さん、ブレス・ヴォイス・トレーニングの福島英さん、「密息」で話題の中村明一さん、音読・朗読の教育理論を提唱する荒木茂さんなどをリンクしている。

 表現よみはもちろん、朗読・音読、「語り」、「読み聞かせ」など、音声表現に関心ある方はぜひのぞいてほしい。そして、わたしの表現よみ理論の日々の発展を見つめてほしい。
posted by 渡辺知明 at 06:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 音声表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月01日

日本語教育とアクセントの問題―高低から強弱へ!―

 日本語教育の課題の一つに、外国人に「拍(はく)」をどう教えるかというものがある。きのう(2007.6.30)国立国語研究所で開催された第32回「ことば」フォーラムで公開されたビデオでもとりあげられていた。

 たとえば、外国人は「少々(しょうしょう)」とか、「あっさり」という拗音や促音などをひとつの「拍」として発音できないというのである。それは「拍」についての理解がないからだと説明されていた。では、それぞれの音(オン)を拍として、たとえば、「しょ う しょ う」とか、「あっ さ り」と発音すればいいのかというと。これまたおかしい。小学生でもなければ、そんな発音する日本人はいないからだ。

 この問題は、わたしの提唱する強弱アクセントの考えを導入すれば、じつに簡単に解決する。折口信夫『言語情調論』(中公文庫)によれば、日本語の強アクセントの原則は、(1)のばす音(オン)、(2)促音、(3)撥音、(4)拗音の四つだという。上の音(オン)も、まさに強アクセントなのである。

 だから、下記のように、赤字の音(オン)を強アクセントにすればよいのである。問題は、高低アクセントに慣れている日本語教育者に、強アクセントの発音ができるかどうかである。

 (1)しょうしょう
 (2)あっさり

 また、同じビデオで発音の区別がむずかしいという例にとりあげられた下記の3例の区別も下記の通りである。

 (3)切ってください――きってください(促音)
 (4)来てください――てください
 (5)聞いてください――きてください(のばし)

 さらに、次の二組の語の発音も下記のとおりである。

 (6)大場さん――おばさん(のばし)
 (7)おばさん――おさん
 (8)美容院――びよういん(のばし)
 (9)病院――びょういん(拗音・のばし)

 日本語の発音は一文字と一音が対応するのではない。(9)のように拗音とのばしが組み合わされて、強アクセントになる例はたくさんあるのである。文の意味を発音で明確にするために問題になるのは、「なかった」という語句である。どの音(オン)から強アクセントをかけるかによって意味が変わるのである。
【参考にしてほしい論文】
日本語は「高さアクセント」ではない
「高さアクセント」から「強さアクセント」へ
 
posted by 渡辺知明 at 06:44| Comment(0) | TrackBack(2) | 音声表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月29日

伝達のアクセントと表現のアクセント

 『NHKアナウンサーのはなす・きく・よむ(声の力を生かして編)』(2007年版)を読んだ。年を追うごとに、「朗読」の比重が増して、今年は半年分の内容のうち6分の5になっている。4月が語りきかせ、5月が人前ではなす、6月がよむ(基本)、そして、7月から9月は3回にわたって「朗読」である。
NHKアナウンサーのはなすきくよむ 声の力を生かして編 20 (2007)
NHKアナウンサーのはなすきくよむ 声の力を生かして編 20 (2007)日本放送協会 日本放送出版協会


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 内容の変化はそれだけでない。国立国語研究所の元所長・水谷修氏に「話すことばと文章音読の音声」を書かせている。テーマは、どうしたら朗読が読み上げではなく表現になるかということだろう。「卓立」の重要性をとりあげている。一読に値する文章だ。

 この文章に代表されるように、今年の内容には「表現」というテーマが見えている。また、「語り手」あるいは「語り口」というような意識を持つようになったのもNHK版「朗読」理論の進歩だろう。さらに、作品論としての「語り口」論が出てきたら、文学作品の表現としての朗読の実践も発展すると思う。

 わたしの関心をひいたのは、榊寿之アナウンサーの書いた「現在形」の表現という文章だ。ここには、「現在形の工夫」として文末の止め方の重要性が書かれている。注意点が二つある。

(1)文末を素早く・鋭く、(2)文末を止める

 現在形の工夫というのは、じつはNHK版「朗読」の伝達から表現への転換の一案なのである。だが、これを実践的に実現するには二つの障害がある。一つは、高低アクセントの理論である。現在、多くのアナウンサーが高低アクセントのよみかたをしていないにもかかわらず、理論としてはある。高低アクセントはいわば、アナウンスやナレーションのために磨かれてきた理論である。

 もしも、「朗読」で表現をめざすなら、強弱アクセントへの転換が必要である。そのためには決定的な問題として、強弱アクセントを実現するための発声が行われねばならない。残念ながら、榊寿之アナウンサーの「工夫」でも、そこまで実践方法が届いていない。

 
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2007年06月09日

「鼻」と「花」のアクセント

 芥川龍之介の作品に「鼻」がある。このタイトルを朗読するとき、「花」と区別して聞こえるように発音するのはむずかしい。それは、高低アクセントに頼って、強弱アクセントの訓練がされていないからだ。
 
 「花」は高低アクセントでいうと尾高である。ハとなる。よく使われる技法でいうなら、「ハガ」と格助詞の「ガ」をつけて発音したときに、「ナ」で高くなり、「ガ」で低くなる。これを発音するのはやさしい。

 ところが、問題は「鼻」である。これは高低アクセントでは平板とされる。平板というのは、高くなるところがないということである。だから、たいていの人が力無く「ハナ」と発音する。だから、たいてい「鼻」の意味には聞こえない。(試しにやってみるといい)

 じつは、高低アクセントでいう「平板」というのは、単なる平板ではないのである。「ハナ」の「ナ」に強アクセントがあるのだ。そして、格助詞の「ガ」をつけた場合にも、「ハナガ」では、「ナ」に強アクセントがあり、「ガ」では力が抜けるのだ。そうしないと、「花」と「鼻」の区別がつかないのである。「鼻」については、高低アクセントの原理では明瞭に発音できない。強アクセントの実践が必要なのだ。

 ところが、この強アクセントがなかなかできない。というのも、一般に音声表現の理論では、日本語のアクセントは高低とされているし、実際に発声・発音の訓練では、強アクセントは訓練されてないからだ。現代の日本語のアクセントの理論は、高低アクセントでは解決できない問題がいろいろある。だから、それに加えて強弱アクセントの考えを取り入れる必要がある。

 かつて、昭和10年代には日本語のアクセント理論は完全に固定されていなかった。さまざまなアクセントの考えが交錯して議論されている他。日本語のアクセントは二音節にあるとか、語末にあるとかいう議論もあった。今、朗読が盛んになり、日本語の音声化が問題になっているとき、あらためて高低アクセント絶対とする理論の再検討が必要である。
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2007年05月19日

文字への感覚と声への感覚

 文章指導と朗読との関係で思いついたことがある。文章に上達するには、書かれた内容を受け取るだけではダメである。内容がどのような形式によって表現されているか意識できないと、いつまでも文章が上達しない。作文教育では、これを「ガラスの意識」と呼ぶ人もいる。つまり、文章に書かれた世界は常に「ガラス」としての文章の形式を通じてよみとられるのだ。

 今朝、新聞の活字を見ていて思いついた。新聞記事などでも同様である。見出しや小見出しがどのような字体で書かれているか、明朝体か、ゴチック体か、どのような地紋が付けられているか――文字の意味と文字の形態とは区別されなければならない。文字の形態からは、文字の意味からは浮かばないような感化的な表現が生まれる。

 朗読ではどうか。声が担う情報的な内容は単純に文字化できる。情報の伝達を目的にするようなアナウンサーやナレーションならば、その程度の音声化でいいだろう。だが、表現としての朗読を考える場合には、文字化できない声の響きが問題になる。ここに、朗読が表現となるかどうかの秘密があるのだ。

 朗読してメッセージを情報として伝達するような場合には、朗読の表現面は問われない。だが、文学作品の表現となると別である。とくに聞き方が問題である。聞き手の聞き方ばかりではなく、読み手の聞き方が問題なのだ。読み手が情報の面ばかりを音声化するなら、そこから表現は生まれない。また、聞き手が情報ばかりを聞き取るなら、朗読は表現としての意味を持たないだろう。朗読の聞き手の耳の成長が、読み手の表現を成長させるのである。
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2007年04月26日

声の質の6通りと朗読の表現

 声の質にはどのような種類があるだろうか。最近、次の6通りを考えた。

 (1)大小、(2)高低、(3)長短、(4)軽重、(5)強弱、(6)硬軟

 (1)から(3)は常識的なものだ。だが、あとは、わたしの独自のものだ。(1)から(3)は物理的な測定ができる。いわば、量的なもので、本来の声の質ではない。だが、(4)から(6)については、まさに質的なもので測定ができない。だが、耳では判断できる。

 (1)から(3)は声の物理的な特性をはかるのには都合がいい。だが、表現についての基準にはならない。朗読などの表現にかかわるのは、(4)から(6)の質である。

 (4)は「マ」と「ダ」の発声のちがいだ。「マ」は正面に向かってまっすぐに響く声で、軽く伝わる声だ。それに対して、「ダ」の音(オン)は手元に落ちる声である。返事の「はい!」で言うなら、軽い声は相手に届かせる表現、重い声は自らの存在位置を示す表現となる。これまで高低イントネーションとされるものも、その多くが「軽重」の声に置き換えられるだろう。

 (5)は腹式発声(腹式「呼吸」ではない)による声の厚みを伴うものだ。強い声は、単語の強アクセント(高低ではない)、語句のプロミネンス(強調)の表現には不可欠である。だが、一般の朗読理論では、この二つはほとんど問題にされていない。

 (6)は喉音(こうおん/のど声)と鼻音(びおん/鼻声)とのちがいだ。喉音は鼻で共鳴させずに口から出る声――相撲の行司の「ハッケヨイ」の声だ。それに対して、鼻音は、相撲の呼び出しの声である。鼻濁音もことばの当たりをソフトにするために鼻音にしたものだ。一般の声の表現では100%の喉音とか鼻音はない。たいていが適当な分量のミックスである。(ちなみに、鼻濁音の多くには強アクセントがつく。そのとき、硬いままの声では当たりが強い。それを避けるためにできたものだろう)

 以上のような声の質について、どの要素をとらえるかによって、朗読の表現の考え方は根本から変わるのである。
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2007年04月15日

幼児の言語発達とおとなの発音

 『国語の授業』199号(一光社2007/4)に大久保愛(国立国語研究所名誉所員)氏が「幼児の言語発達過程とことば育て」という論文を書いている。そこに、おとなの発音と発声を考えるうえで面白い指摘があるので紹介する。

 大久保氏の研究は幼児の言語発達を綿密に記録調査したものにもとづいている。それによると、幼児期(1歳ごろまで)の音声の発達は次のような順序だそうだ。

 「音声の準備のできる時期で、母音の「ア」からはじまって「ウ」「エ」「イ」「オ」の順序で修得」(10ページ)

 実際に発声してみると分かるが、この順序で口の緊張が強くなって行く。「オ」の口の緊張は、おとなでもなかなか厳しい。子どもならなおさらだろう。ここから言えるのは、おとなも訓練をしないと、「エ」「イ」「オ」などの発音はアイマイになりがちだということだ。すでに、言語発達を通過してきたおとなが、必ずしも「おとな」の発音ができるとは限らない。これは今の若者たちを見ても分かる。

 もう一つ、子音の発音の発達についても次のように指摘している。

 「子音は母音よりもおくれるが「バ」「パ」「マ」「ン」から「タ」「ダ」の順序である。」(11ページ)

 ローマ字で表せば、「B」「P」「M」「N」「T」「D」となる。とくにむずかしいのが、「D」の音(オン)である。わたしが行っている発音のトレーニングでは、「マ(軽い声)」と「ダ(重い声)」の発声を交互に行う。むずかしいのは「ダ」の発声である。これは安定した地声の発声である。幼児の発達においてむずかしいものが、ここでもおとなに共通するものとなっている。

 「ダ」に代表される地声の声が声の表現においては重要なのである。「青い空」「白い雲」などの語句では、「青い」「白い」の修飾部分が軽い声になり、被修飾部分が重い声になる。これがなかなかできない。ナレーションなどでは、修飾部分を軽くするのはいいが、被修飾部分に高いアクセントを加えてしまう。これが逆イントネーションに聞こえてしまうので不安定になるのだ。それでも、ナレーションやアナウンスの場合はいい。朗読などの文学表現になったときには、それは表現ではなく、文章の読みあげか読み聞かせのように聞こえてくる。

 さて、結論はこうである。幼児の言語発達において通過してきた発声や発音であるが、おとなのわれわれが必ずしも、おとなとしての発声や発音ができているとは限らないのである。生涯教育の基礎は意外にも、幼児期からの発達過程をあらためて振り返ることにあるかもしれない。世は健康ブームで肉体の衰えを防ごうと血眼であるが、意外に、声については訓練しだいで若さを保てることが忘れられているようである。
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2007年03月31日

声でなぞることの意味―日本語シャドウイングのすすめ

 「声でなぞる文学」として、しばらく朗読の定番の作品をアップしてみようと思う。これまで、わたしの公開した表現よみのファイルを一節ごとに区切って、あいだをあけて、聴き手があとを追ってよめるようにしたものである。最新のものは「セロ弾きのゴーシュ」である。 

 自分でファイルを作成して気づいたことであるが、意外な効果がある。
 (1)たとえ一節でも、あとで自分で声にするのだから、ことばを暗記しなければならない。それで聴き方が変わる。短期の記憶力が高まる。
 (2)声の表現は単なる復唱ではないから、声のさまざまな調子までを聴かねばならない。それがことばの意味だけではなく、声の表現を聴くことになる。そこに含まれる感情までも聴くようになる。
 (3)このような聴き方をして、自らの声で表現するから、声による表現力が高まる。

 そして、おもしろいことは、自らがかつて音声表現した作品でありながら、あらためてことばについての発見があることだ。それがいったい何なのか、まだ明確にできない。だが、こんな繰り返しに意外なおもしろさがあることも確かだ。おそらく、活字の文字を声にするよりも、はるかに心を動かす作用があるのだろう。常に聴くことと読むこととが同時に並行しているおもしろさだ。

 これは外国語通訳者のシャドウイングと同様に、ある個人の日本語と別の個人の日本語との通訳というような作用なのであろう。
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2007年03月22日

声でなぞる古典=表現よみ「方丈記」

 朗読の練習にシャドウイングの方法が有効である。これは同時通訳者の訓練のための方法で、人の話す声を聴きながら、すぐにあとについて声に出していくことである。これまで、ブームとなった教科書を買って朗読をはじめた人は大勢いるだろう。だが、その後、訓練をつんで技術の向上を目ざす人はずいぶん少ないと思う。

 そんな方がたのためにひとつの方法を思いついた。シャドウイングは、手本となる声は待ってくれないので、なかなかむずかしいものである。それで、一節ずつ時間を取って、余裕を持って声に出せるような録音を作った。(お話しPod/表現よみ作品参照)

 これで朗読ではなく、表現よみであるということがミソである。朗読の場合、表面的な音声をたどることになるが、表現よみでは、アクセントの強弱や語句のプロミネンス(強調)を表現している。一節ごとの、力の入れ方がわかると古典の読解と理解も進むことであろう。

 また、声の後をたどるために、注意深く正確によみの表現を聴くという訓練にもなる。わたし自身、自分のよみを聴きながら、声でなぞってみると、自分のよみであっても、あらためて深く聴き直していることに気づいてビックリした。ぜひ、お試しあれ!
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2007年03月17日

日本語の高低アクセントの問題点―ノドアクセントとハラアクセント

 NHKのアーカイブスで40年ほど前のナレーションと現代のナレーションを比較すると、かつては高低アクセントであったものが、現在では強弱アクセントに変化しているのがわかる。現代のアナウンサーで高低アクセスに忠実によんでいる人はほとんど見あたらないくらいだ。

 そもそも、高低アクセントが日本語の本質をとらえていないことが問題である。若者たちのアクセントが平板化するというのも、ひとつの原因として高低アクセントの不自然さがある。だが、それに替わるものとしての強弱アクセントがないので、結局、アクセントの平板化や力のない物言いとなるのだ。あるいは、一部の女性アナウンサーのように高アクセントをウラ声で発声することになる。

 わたしは最近、古典文学のよみを手がかりに強アクセントの研究をしている。強アクセントには二種類ある。一つは、ノドアクセント、もう一つは、ハラアクセントである。どちらも、発話の意味の正確さを表現するには不可欠のものである。

 ノドアクセントは、声としては表面に出ないが、ノドの奥で発声される音(オン)である。その代表例は「……ある」の「る」である。ハラアクセントとは、腹と腰の周辺の筋肉が緊張して出る音(オン)である。この二つの組み合わせで、ほとんど高低アクセントに変わる音声表現ができることがわかっている。

 ほかに最近の発見としては、ほとんどの鼻濁音にはアクセントがあるということだ。強く発するべき音(オン)が目立たないように鼻にかけて当たりを柔らかくするはたらきがある。また、一般にイントネーションといわれる音(オン)の変化も、じつは高低の変化ではなく、声を軽くするものだ。それも、修飾語を強調して声を強くしたとき、当たりを強く感じさせないための工夫だと言える。
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