ところで、朗読の良し悪しというものは評価できるのだろうか。
朗読がただ単に声に出してよむという行為であるなら、それはどうでもいいかも知れない。しかし、書かれた文字を声にすることは、一種の表現になるわけだ。良し悪しでなくても、好き嫌いでもいいが、それも評価の一種になる。
ここ数年、朗読はブームになりかけた。だが、すぐに頭打ちになった。というのも、朗読の良し悪しというものが問われなかったからだ。頂点ともいえる到達目標があれば、その高みを目指して精進するという可能性も出てくる。だが、「そんなこと、だれでもできるよ」というものであるなら、すぐに熱は冷めるであろう。
声に出してよむという行為を一括して「音読」という。音読にもいろいろある。その表現性を軸にすると、次のような並びになるだろう。
音声訳(音訳)→朗読→表現よみ→語り
わたしはさらに文字の音声化の原理としてのよみを付け加えたい。それは、今、わたしが「表現よみ」として実践しているものである。作品の音声化ということではなく、この理念が、文字言語と音声言語を媒介するものだろうと考え始めている。
実践的な表現よみを表現よみ1というなら、これは表現よみ2と呼びたい。じつは、朗読の評価というものも、この理念を基礎にしないと出てこないものなのである。
そんなむずかしいことを言ってみても、具体的な朗読は個々人のよみによってしか表現されないのである。応募作品はすべてお話しPodでポッドキャスティングされるということなので、朗読賞の盛り上がりが楽しみだ。これまでに聞けなかったような声の表現が登場することを期待している。