2009年08月27日

《添削小説》宮沢賢治「銀河鉄道の夜」PDF版

 宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」は下書きのまま残された原稿としてよく知られている。実際に読んでみると、確かに公表された作品と比べると文章表現で不十分なものである。非常に読みにくい。また、ダブったことばやねじれた文章などがあちこちに見られる。

 今年の5月わたしは「銀河鉄道の夜」をドラマ・リーディングのために台本に作成した。その結果、さまざまな文章を添削せざるを得なかった。余分な文を削り取ったり、修飾語が三つ重なるところ削ったり、ねじれた文の語の順序を入れ替えたりした。ただし、賢治の原文を極力生かすようにした。
 
※ そのために「銀河鉄道の夜」の生原稿の写真版の本まで取り寄せて参照した。『宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』(1997年3月宮沢賢治記念館)

 一般的にはリライトするような形で手を入れてしまうものであるが、わたしは「添削」のつもりで原文に忠実になるように心がけたのである。その結果、おそらく、原文以上に内容が明快な作品に仕上がったと思っている。

 さらに、ひとりで銀河鉄道の夜を読んでみたいという人がいたので、その人たちのために小説版の「銀河鉄道の夜」を仕上げることにした。その結果が次のPDFで掲載した作品である。ちなみに、渡辺知明添削としてある。
◎参照=銀河鉄道の夜PDF
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2008年03月06日

芥川賞作家の接続語の芸

 今回の芥川賞作家・川上未映子さんのエッセイが、東京新聞3月6日に載っていました。一目見て、わたしは文章の芸というものを感じました。

 まずはお読みください。以下のセンテンスはわずか三つです。それをどのようにつないでいるか意識しながらお読みください。

 「小説や文章の原稿依頼は前作が候補になったあたりからそんなに変わらずに、直線が先の方まで伸びてゆく、といった感じでしたが、さすがにこのたび芥川賞を受賞して、取材のご依頼などなどが集中して、この1ヶ月は多い日で一日で五件とかをほとんど毎日繰り返し、そして短編、コメント、朝起きてエッセイやそれにまつわるゲラの見直しなどをして、こういうのを多分「忙しい」というのだと思うのだけれど、実感としては、何かとてつもなく巨大なものが巨大な足を一歩踏み出して、ぶんと時間をひとまたぎ、それを下から見上げてた、というような感じであって、誰が何をしていたのかが、はっきりと思い出せないような、区切りのない激しい一ヶ月でした。

 毎日大変でしょうよとお気づかいもいただくけれど、作品はすべてそれを受け取ってくれる人のためにあるというのも真実の一場面。なので、本を作った、そしたらそれを届けるためのなんやかや、いわゆる宣伝活動は、むしろわたしが身を置いていた音楽活動の現場では当たり前のことであったからまったく大変ではなく、すべて有り難いことなのだけれど、しかし思えば音楽の場合は数ヶ月かけてアルバムを作ったら、ライブやもろもろの活動はあれど、とりあえず録音作業からは距離をおけるけれど、文章は書き続けなければならない。そこが大きく違うところで、そっか、皆さんそこんところを大変でしょうと言ってくださってたのかと思ったり。たとえば作品を通底するテーマ自体に変化はなくても、枚数や文字の形や、紙なのか画面なのか、いわゆる形式によって、現れてくる文章の性格や表情はがんがんに変わるものだけれど、人に届けるための活動においての感情や体の反応を一つ取ってみても、形式という他者によって実感も変わるものだなあーと改めて感じた次第。」

 「蛍の墓」を書いた野坂昭如の文章を思い起こさせます。一見、複雑なようですが、一つの「芸」の世界といったらよいでしょう。
 ちなみに、文章を接続語で区切って論理を明解にしてみると次のような文章になります。そして、論理的な誤りや無理な言い回しも見えてきます。しかし、この人の文章がどのような「芸」によって成り立っているかということも分るでしょう。(接続語は太字で示します)

「小説や文章の原稿依頼は前作が候補になったあたりからそんなに変わらずに、直線が先の方まで伸びてゆく、といった感じでした。
 だが、さすがにこのたび芥川賞を受賞して、取材のご依頼などなどが集中した。
 そして、この1ヶ月は多い日で一日で五件とかをほとんど毎日繰り返した。
 そして、短編、コメント、朝起きてエッセイやそれにまつわるゲラの見直しなどをした。
 そして、こういうのを多分「忙しい」というのだと思うのだ。
 けれど、実感としては、何かとてつもなく巨大なものが巨大な足を一歩踏み出して、ぶんと時間をひとまたぎ、それを下から見上げてた、というような感じであった。
 そして、誰が何をしていたのかが、はっきりと思い出せないような、区切りのない激しい一ヶ月でした。

 毎日大変でしょうよとお気づかいもいただく。
 けれど、作品はすべてそれを受け取ってくれる人のためにあるというのも真実の一場面である。
 なので、本を作った。
 そしたら、それを届けるためのなんやかやがあった。
 (このような)いわゆる宣伝活動は、むしろわたしが身を置いていた音楽活動の現場では当たり前のことであった。
 だから、まったく大変ではなく、すべて有り難いことなのだ。
 けれどしかし、思えば音楽の場合は、数ヶ月かけてアルバムを作ったら、ライブやもろもろの活動はある。
 けれど、とりあえず録音作業からは距離をおける。
 けれど、文章は書き続けなければならない。
 (つまり)そこが大きく違うところで、(ある。)
 (それで)そっか、皆さんそこんところを大変でしょうと言ってくださってたのかと思ったりした。
 たとえば、作品を通底するテーマ自体に変化はなくても、枚数や文字の形や、紙なのか画面なのか、いわゆる形式によって、現れてくる文章の性格や表情はがんがんに変わるものだ。
 けれど、人に届けるための活動においての感情や体の反応を一つ取ってみても、形式という他者によって実感も変わるものだなあーと、改めて感じた次第である。」

 接続語というものは、ただ単に文をつなぐのではなく、論理的な関係を示すものです。わたしは、接続語の構造を11通りに分類して体系化している。そして、「文章トレーニング」を工夫して文章通信添削講座を開いています。(参考「接続語の論理機能一覧」)

乳と卵
乳と卵川上 未映子

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posted by 渡辺知明 at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 文章表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月26日

文を理解する山カッコ―層としてのよみ

 全国学力テストの結果が発表されて、小中学生の国語力の問題は、漢字の読み・書きではなく、文章の読み・書きであることがますますはっきりしています。

 では、おとなたちはどれだけ正確に文章を読んで理解しているでしょうか。また、正確に文を読むための方法は自覚しているのでしょうか。試しに、次の文章を丁寧に読んでください。

「バブル期は、結果としてお金がたくさん手に入るのが成功とされた時代でした。何をやってもとにかく儲かればいい、という人間のさもしさが、前面に出たすごく「卑しい」時代だったと思います。ビジネス本来のルールが忘れ去られ、人々が争って不動産売買や株式運用や為替の売り買いに明け暮れていた、個人的印象を言わせてもらえば本当に嫌な時代でした。バブル経済の時代をいまだに懐かしがる人がいますが、どうしてあんな時代が懐かしいのか僕にはぜんぜん理解できません。」(内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』2007角川文庫76ページ)
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 わたしは文章に「印しつけ」をせずには読めません。主語(ダレガ・ナニガ)にマル印し、述語(ドウスル・ドウダ・ナニダ)に線を引いたり、接続語を□で囲んだりします。とくに重要なのが〈 〉(山カッコ)です。上の文章に、赤字で山カッコ(名詞句のくくり)と( )(内言のことば)とを入れて示しましょう。

「(1)バブル期は、
〈〈結果としてお金がたくさん手に入るのが成功とされた時代(註=外がわの〈 〉を選ぶ)
でした。
―骨格文=AはBでした。

(2)〈〈何をやってもとにかく儲かればいい、という人間のさもしさが、前面に出たすごく「卑しい」時代だった(註=外がわの〈 〉を選ぶ)
と思います。
―骨格文=(Aは)Bだったと思います。

(3)〈〈ビジネス本来のルールが忘れ去られ、人々が争って不動産売買や株式運用や為替の売り買いに明け暮れていた、個人的印象を言わせてもらえば(本当に嫌な時代)〉
でした。
―骨格文=(Aは)Bでした。

(4)〈〈バブル経済の時代をいまだに懐かしがる人がいます
(どうしてあんな時代が懐かしいのか)僕にはぜんぜん理解できません。
―骨格文=Aがいます(しかし)(それが)Bには理解できません。

 (1)に主語=「バブル期は」があります。それを(1)(2)(3)で3つの「時代」が述べられています。(4)はそれに対する書き手の感想です。〈 〉でくくると単純な「骨格文(文の骨組み)」が見えてきます。

 (2)で〈 〉は3段階につけられるのですが、どのレベルに注目して〈 〉をつけるかが、問題のとらえ方のレベルになります。こうして、説明をすると面倒ですが、よみながら〈 〉のレベルを選択することが内容理解の決定するのです。〈 〉も( )も、文における「対話の構造」(ミハイル・バフチン)の要素です。
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2007年07月26日

表現としての朗読、売り絵としての朗読

 そろそろネットでも、朗読作品が商品として売れそうな気配が出てきた。ネットで販売される朗読を聴いていると、その目指している表現が気になる。絵画で言うなら「売り絵」である。風景画などを決まったパターンで何枚も書いていて、どの絵にもこれといった特徴がないのである。しかし、均質とでもいうような質的な一貫性がある。

 それに対して、いわゆる素人の朗読というものがある。発声や発音などは、ナレーションやアナウンサーに比べたら、つやのないことが多い。しかし、その無骨ともいえるようなよみの背後にある強烈な思いというものが感じられる。それは、玄人慣れしたよみにはない魅力である。

 今後、もしも朗読が商品になるとしたら、それは絵画と同じように二系統に分かれるだろう。一つは、いかにも玄人風の「売り絵」のような朗読、もう一つは、後になって「これはすばらしいのだ」と発見されるような表現としてのよみである。それは後に芸術と評価されるかもしれない。

 後者のようなよみには商品としての画一性、標準性はないが、よみ手自身の全生命をかけた表現としての魅力がある。また、そのようなよみをする人自身、作品をよむという行為によって、自らの言語能力を高めているにちがいない。それはまた自らの人格を高めることにもなる。

 ちなみにゴッホの絵は存命中には一枚も売れなかったという実例がある。朗読の本質は、耳ざわりのいい声の響きにあるのか、それとも、作品の内容やよみ手の真実性の表現にあるのか、それはあらゆる芸術について問われる問題と同じことなのである。【関連】『Web表現よみ入門』
posted by 渡辺知明 at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 文章表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月29日

国語読解プリントの実例「故郷」

 古いデータを整理していたら、中学校の学習塾で国語を教えていたときに使用したプリントが出てきた。○○とは、わたしが勤めていた塾の名である。生徒が本が読めないので、一人でも本を読みながら読解できるようなプリントができないかと工夫したものである。(縦書きなので教科書の数字が漢数字になっている)

 子どもたちの読書ばなれが問題になっているが、このようなクイズ形式で読み進むにつれて理解が深まるプリントを使用すれば、楽しみながら読めるかもしれない。国語の先生方の参考になればと思う。教材は中学校三年で使用した魯迅「故郷」であるが、今でも、使われているのだろうか?

 中三国語   故 郷   ○○プリント
     クラス・番号・なまえ(            )
◎教科書一二八ペから読みながらあとの問いに答えなさい。
(1)一二八ペ7「気配」の読みがなを書きなさい。
 (                           )
(2)一二八ペ9「わたしの記憶にあるルントウ」とはどこに書いてあるのか。
(   ページ   行から)
(3)一二八ペ9「ルントウ」はどんな姿をしているか。九ヵ所をぬきだしなさい。
 (@          A           )
 (B          C           )
 (D          E           )
 (F          G           )
 (H          )
(4)一二九ペ2「思案」の意味を書きなさい。
 (                       )
(5)一二九ぺ10「喜び」と「寂しさ」のそれぞれの理由を書きなさい。
 (                       )
 (                       )
(6)一二九ぺ15「悲しむべき厚い壁」は何を意味するか。
 (                       )
(7)一三〇ぺ11の母のせりふで、母のどんな性格がわかるか。(                     )
(8)一三一ぺ9からのルントウのせりふからどのような生活がわかるか。
 (                       )
(9)一三二ぺ5でルントウが「でくのぼう」のようになった理由を七つあげなさい。
 (@          A           )
 (B          C           )
 (D          E           )
 (F          )
(10)一三二ぺ7ルントウの選んだ品物を五つあげなさい。
 (@          A           )
 (B          C           )
 (D          )

◎教科書一三二ペ13から読みながら問いに答えなさい。
(1)一三二ぺ14「五歳になる女の子」は何番目の子供か。
 (                       )
(2)一三三ぺ10のホンルのせりふから何がわかるか。
 (                       )
(3)一三四ぺ1「わたしも」「母も」なぜ「はっと胸をつかれた」のか。
(                 )
(4)一三四ぺ4「ルントウが埋めておいた」というのは本当のことか。
(                 )
(5)では、そのことからルントウのどのような性格がわかるか。(                     )
(6)一三四ぺ8「纒足用の底の高い靴」とわかると、よみ手はヤンについてどんな気持ちを感じるか。
(                        )

◎教科書一三四ペ10から読みながら問いに答えなさい。
(1)一三四ぺ10なぜ「名残惜しい気はしない」のか。
 (                       )
(2)一三四ぺ12「すいか畑の銀の首輪の小英雄」とはだれのことか。(                  )
(3)一三四ぺ16「わたしとルントウの距離が遠い」とはどういうことか。
 (                       )
(4)一三五ぺ1「彼ら」とはだれとだれか。
 (           と           )
(5)一三五ぺ5「他の人」とはだれのことか。
            (            )
(6)一三五ぺ6「新しい生活」とはどのような生活か。
 (                       )
(7)一三五ぺ11「彼の望むもの」とは何であったか。
 (                       )
(8)一三五ぺ15「道」とはどこへ通じる道なのか。
 (                       )
◎つぎのひらがなは漢字に漢字はひらがなになおしなさい。
@厳しい(      )
A真冬のこう(の     )
Bそらもよう(      )
C旧暦(       )
Dいきょう(      )
Eきげん(       )
F家具のしょぶん( の      )
Gのうり(           )
Hそせんのぞう(      の    )
Iやといにん(    い    )
Jしょうちする(     する) 
Kなわ(   )
Lかいがらひろい(        い)
Mはね魚がはねる( が     る )
Nしんぴのほうこ(      の      )
Oかんだかいこえ(       い    )
Pくちびる(   )
Q商売はんじょう(      )
Rじゃま(    ) 
Sふるえる(      える)
                     1990.09.28作成
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2007年03月23日

録音のための作品の構成―『ロシアのクリスマス物語』を例に

 昨年の暮れに、わたしは表現よみO(オー)の会のメンバーとともに、CDブック『ロシアのクリスマス物語』(2006群像社)を刊行した。同じタイトルの書籍『ロシアのクリスマス物語』(田辺佐保子訳、1983群像社)クリスマスにちなんだロシア文学の作品から5つの作品を選択して、そのよみを録音したものである。
CDブック ロシアのクリスマス物語
CDブック ロシアのクリスマス物語シメリョフ ソログープ クプリーン

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stars表現としての「朗読」作品

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 読まれている作品は次のとおりである。( )はよみ手。シメリョフ「クリスマス」(佐藤絹代)、ドストエフスキイ「キリストのヨールカ祭に招かれた少年」 (渡辺知明)、ソログープ「雪娘」(黒部二三四)、ブーニン「イーダ」(山口葉子)、クプリーン「クリスマスの列車で(車両長)」(吉野由美子)

 じつは、このCDブックには、録音のテキストがついている。その文章はオリジナルの書籍の作品とはちがうものである。解説にも書かれているように、もともとの翻訳をそのまま使うのではなく、書き換えたのである。その目的はいくつかある。

 第一は、時間の長さの制約である。第二は、耳で聞いたときの理解のしやすさである。第三は、声の表現を効果的にする文章表現である。作品を目で読む場合、読み飛ばしということができるが、耳で聞く場合には、聴き飛ばしはむずかしい。以上の三点は、聴き手の負担を減らすということに関わる音声表現の原則ともなるのである。

 この作業は、おもにわたしが当たったのであるが、次のような手順で行われた。まず、翻訳者からの許可を得て、編集者が作品の抜粋を作成した。わたしも原稿に手を入れる許可をもらって、音声表現のための作品の再構成をした。いわゆる朗読CDを作成する場合、このような作業は不可欠だと思われる。

 現在、『ロシアのクリスマス物語』の原著作もCDブックも入手できるので、双方を比較して録音版の作成の参考にしていただければ幸いである。
ロシアのクリスマス物語
ロシアのクリスマス物語イワン・セルゲーエヴィチ シメリョフ ミハイル・ミハイロヴィチ ゾシチェンコ ヴラジーミル・ヴラジーミロヴィチ ナボコフ


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posted by 渡辺知明 at 13:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 文章表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月14日

ヤマカッコ方式の「記号づけ」による読解法

 わたしは毎朝トイレで、東京新聞のコラム「筆洗」の音読を続けている。小声でぶつぶつと読みながら内容を理解する方法である。声に出して理解するという日本語によるオーラル・インタープリテーション(口頭解釈)の訓練である。わたしの提唱する「表現よみ」の基礎トレーニングである。また、文章表現のおかしなところを発見するという効用もある。

 2006年11月12日(日)「筆洗」第2段落の文につまずいた。下記のような内容である。まずは、冒頭から下記の引用部分を読んでほしい。

「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙で落ちればただの人」。戦後の保守合同劇の立役者の一人、大野伴睦(ばんぼく)の言葉だが言い得て妙。だから政治家は選挙で死に物狂いになる▼昨年の衆院選で初当選した「小泉チルドレン」の多くが、郵政民営化に反対し自民党を離党、除名された「造反組」の復党に反対するのも、ただの人になることを恐れてのことだろう。「刺客」として小選挙区で戦った相手が復党すれば、自分の出馬する場所がなくなりかねない(以下略)

 わたしが「あれっ」と思ったのは次の下りである。
「昨年の衆院選で初当選した「小泉チルドレン」の多くが、郵政民営化に反対し自民党を離党、除名された」

 前段では「選挙で死に物狂いになる」政治家について書かれている。それから「「小泉チルドレン」の多くが」と主語が出てきて、それに続く「反対し」「離党(し)」「除名(され)」という動詞が続くのである。当然、主語に続く動詞を述語として読みたくなる。それで、「おや、小泉チルドレンが、そうなったのか?」と感じたわけである。そこで、わたしは立ち止まって、過去の動乱を思い返して、読み方のちがいに気づいたのである。

 音読による文章の理解は語順のとおりに受け入れるものである。このような文章はよみにくい。いい文章というものは、語句の順序どおりにアタマに入るものである。だから読みやすく理解しやすいのだ。しかし、こんな文章にも「記号づけ」をすると理解できる。わたしがおすすめするのは、ヤマカッコである。文中の名詞句にあたる部分を〈 〉でくくるのである。

 上に引用した文に記号をつけてみよう。これで文章の構造と意味が明確になる。
昨年の衆院選で初当選した「小泉チルドレン」の多く郵政民営化に反対し自民党を離党、除名された「造反組」の復党反対するも、ただの人になることを恐れてのことだろう。」

 つまり、主部は「昨年の衆院選で初当選した「小泉チルドレン」の多く(A)」であり、それに対して「郵政民営化に反対し自民党を離党、除名された「造反組」(B)」を「(復党)に」で受けている。これを含む全体が「の(こと)」でまとめられて名詞句となっているのである。

 つまり、基本の文は、「AがBの復党に反対するのも……」となる。この構造を「、(句点)」で理解させるのにはムリがある。(〈Bの復党〉としてもくくれるが注目部分に限ってくくることにしている)

 このヤマカッコは、わたしの記号づけのほんの一例である。哲学書や専門書などには、これよりももっと複雑な〈 〉の構造をもつものがある。それでも、記号をつけながら読めばじつにかんたんに理解できる。みなさんにおすすめすゆえんである。
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2006年09月28日

戸坂潤の「作文」教育論

 表題どおりの文章があるわけではない。『思想としての文学』(勁草書房版全集)という論文集の最終章に「論文論」がある。論文と比較しての作文の性格として、次のような指摘がある。

 「作文というものは文章による表現能力の訓練のために存するもので、形式的陶冶による教育の一手段に過ぎないものであって、それが仮に論議的なジャンルないしスタイルのものであっても、論議の内容そのものはそこでは問題ではないのである。」

 戸坂潤は論文というものが内容を実習するものであるのに対比して、作文について述べている。当時の作文とは、ある種の型どおりの文章を書き写したり、それを下敷きにして文章を書かせるものであった。

 ところで、現在の作文教育はどのように行われているか。「表現能力」や「形式的な陶冶」を目指すものであるか。どうやらそうではない。「○○について書け」という課題が目立つ。内容先行である。それよりも、形式的な枠づけを基礎にして文章表現の訓練をするような方法を取るべきである。だが、それが不十分である。

 わたしが提唱している「文章トレーニング(『思考力を高める文章指導法』「第7章 理論文の展開(2)論証」参照)」は、まさに形式的な訓練を先行させたものであり、形式から内容を導き出す方法である。戸坂潤の指摘であらためて、その目的を確認したしだいである。
 
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