2009年04月29日

ドラマリーディング「銀河鉄道の夜」台本と賢治の推敲

 とうとうドラマリーディング「銀河鉄道の夜」が仕上がった。Ver.6.1と名付けた。わたしの考えで全体の文章に添削を加えたものである。2009年5月2日(土)表現よみオーの会の磐梯町での公演に使用する。上演時間はおよそ70分となる。

 これを機会に、宮沢賢治記念館から『「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』(1997宮沢賢治記念館/入沢康夫監修・解説)を入手して、全83枚の生原稿の写真版を見た。これまで、あえて元の原稿を見ずにいた。わたしの添削が影響されるのをおそれたためである。(『「銀河鉄道の夜」の原稿のすべて』は宮沢賢治記念館に注文すると1700円+送料340円で入手できる)

銀河原稿のすべて表紙s.jpg

 しかし、わたしは文章添削の指導をしてきたので、賢治の意向を生かした添削にはある程度の自信があった。この作品は未完成の作品で、完成まで行かないまま公表されたという噂を聞いていたので、途中から徹底的に添削を加えていった。もちろん、作品の意図とテーマとを行かす方向を目指してのことである。

 ナマ原稿を見て、まず感動した。活字ではない、ナマの文字のあとから、賢治の朗読の声が聞こえてくるような美しさがある。そして、推敲のあとを見て、わたしは自分の仕事が賢治の思いを裏切っていないことを感じた。一つ一つの語句や文章に加えられた、鉛筆やインクの後がその思考のあとが浮かび上がってくる。

 これまで、「銀河鉄道の夜」の作品構成からの研究は様ざまあった。しかし、語句や文章の細々した角度からの検討は、おそらくないであろう。その意味で、今回のわたしのドラマリーディング台本作成は独自の意義があると思う。そして、いつも添削のたびに感じることであるが、細部から作品の構造全体に通じる多くの発見があった。「細部に真実が宿る」―これは真実のことばである。

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2009年04月16日

賢治テクストが危ない!

 東京新聞(2009/04/16夕刊)に「賢治テクストが危ない!」と天沢退二郎氏が書いている。『新校本宮沢賢治全集』が完結したのを機会に、賢治のテキストが、さまざまに書き直されて読まれていることの問題をとりあげたものである。

 わたしはいま「銀河鉄道の夜」のドラマリーディング台本を作成している都合上、わたしのことでも言っているのかと買いかぶるほど気を引かれた。作品の校訂作業は非常にたいせつなものである。だが、読者の立場からの作品の享受を考えたときに、わたしなりの言い分もある。それ賢治作品に限られずに、「作品をよむ」という場合の根本的な問題につながるものだ。

 たまたま手にしている「銀河鉄道の夜」を例にしたい。わたしのドラマリーディング原稿はもとの原稿の半分くらいの長さになっている。わたしは最初、原稿に忠実に部分的な切り取りでドラマリーディング台本を仕上げようと考えていた。だが、緻密に読んで行くにつれて、原稿の不備が気になってきた。賢治らしからぬ文章のアイマイさに満ちあふれているのだ。それで添削をすることにしたのである。(その結果は一部画像で紹介している)

 また、もともとの原稿も第一次稿は鉛筆書きの走り書きに近いものである。繰り返しきまり文句のような語句があったり、過剰な描写によって作品の効果を弱めるところも多いのだ。そこで、わたしは音声表現をめざしての添削をした。それは、おそらく、賢治が推敲を続けたならば、そうなったであろうものであると、わたしは信じている。

 ところで、作品をよむという作業はどんなものだろうか。わたしは、読者は作品に対する添削者であるという考えを持っている。文学作品については、字面どおりのよみとりというのはほとんどないだろう。つまり、読者は作品の文章をよみながら、ある語句や文アクセントを置き、ある部分については飛ばして読み、結局、自分に理解しやすい所などを拾っているのである。

 そのような作業によって、作品は読者によってゆがんだ形になってくる。それは、朗読といういかにも中立的なよみかたをしてみても、文字のデータの基礎的な正確さだけでしか実現できないのである。それは、文学のよみの作業ではない。わたしのように意識的にアクセントやプロミネンスをつけて作品を表現したときに、文学の読みの個人性というものが見えるのだ。

 では、天沢退二郎氏のような校訂者の役割はどこにあるかというと、文字としての文学作品の基礎的な正確さを定めることにある。作品の文字としての正確な存在があるからこそ、わたしはそれを基礎にして表現に可能性を探ることができるのだ。一般には、安易にテキストを変更して、そこに創造性があるとか、テキストの表現の吟味をせずに、朗読は個性の表現であるというような考えもあるが、それこそ、文学テキストの厳密性とよみとりの深さを理解しないものである。

 何はともあれ、わたしは「銀河鉄道の夜」のドラマリーディング台本によって、わたしのよみとりというものを示そうと思っているのである。それは、原文テキストの正確さをこわすものではなく、それぞれの読者がどのように作品をよんでいるのかを示すひとつの例であると考えるのである。

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2009年04月09日

『銀河鉄道の夜』のドラマリーディング台本

 ドラマリーディング台本『銀河鉄道の夜』がほぼ固まった。50分くらいの長さになった。まずは、その冒頭5枚を画像で紹介する。(画像参照)

 台本というとまったく原文から離れたり、筋に変更を加えたりというものが多いようだ。だが、この台本では、徹底的に賢治の文章にこだわった。「もしも賢治が推敲していったらどんな仕上がりになるか?」という目標で手を入れた。まさに賢治に変わる推敲と添削の作業である。

 ただし、大きな構成の変更がラストにある。カムパネルラと銀河鉄道の旅をしたジョバンニが、その友人の死を知ったあとで、母の牛乳のために走るだけではなんとも物足りない。わたしはそこを工夫した。

 だが、もちろん、全体を通じて賢治のモチーフとテーマとをより鮮明に浮かび上がらせるための文章の手入れはしてある。カムパネルラとの友情、自己犠牲のテーマなどは、文章への手入れによってより明確に浮かび上がっているはずである。

 ぜひとも画像を見ながら、声に出してよみあげて見てほしい。それから、原文との比較もしてもらいたいと思う。

 表現よみオーの会の公演は、福島県磐梯町にて5月2日(土)午後である。それがすむまでは、台本の全文の公開はしないつもりだ。(詳細はこちらのページ)
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2009年03月29日

「銀河鉄道の夜」の推敲と添削

 ここ数日「銀河鉄道の夜」の添削をしている。読めば読むほど、この作品が推敲途中であることがますますハッキリしてきた。それは雑誌に発表された完成度の高い作品と比較するとよく分かる。文章としたら「グスコーブドリの伝記」や「セロ弾きのゴーシュ」などは見事なものである。

 「銀河鉄道の夜」の添削の場合、いくつかの原則が明確になっている。実例は省いて項目とそれにたいする対策とを挙げておこう。事例については、添削画像から読みとってほしい。「銀河鉄道の夜」の添削

 1.修飾語がいくつも重なっている→3つくらいの修飾語を1つにするか、すべて削ってしまう。
 2.修飾語の語順がよくない→とくに連用修飾語の位置がよくないので用言に近づける。
 3.基本的な文素がイメージを喚起する順序に対応していない→イメージの喚起にしたがった順序にする。
 4.思いつきの語句を修飾語に使う(もう、ほんとに、まるで、やっぱり、など)→原則として削る。
 5.色彩に関する描写を細かく書こうとするあまり逆に対象のイメージを弱めてしまう→色彩を減らすか、色彩の表現を削る。
 6.「……のでした」の強調→多くの文末がこのかたちである。断片的な文のそれぞれを目立たせようとするので文章としてのまとまりを見失わせる。「でした」「ました」の文末に整えた。
 7.接続助詞を多用して文が長くつながる→論理が乱れて、歯切れのわるい文章になる。文を切り分けから接続語を使って論理的につないだ。

 とりあえず、このあたりを中間報告としておく。この続きは、別の機会に書くことにする。

posted by 渡辺知明 at 12:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 本と読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月25日

「銀河鉄道の夜」の文章添削

 「銀河鉄道の夜」は未完の作品である。ドラマリーディングの台本として検討をするうちに、文章そのものの推敲と添削が必要なことがわかった。

 前回は大きく構成の検討作業を画像で公開したが、今回はさらに踏み込んで、賢治の文章そのものの添削作業を公開することにする。

 とくに削除部分についていくつかの発見があった。削るべきことばは次のようなものだ。「もう」「まるで」「ほんとに」――これらは、ついテンションがあがって書き込んだ語句だろう。また、修飾語の語順についても不適切なものがあった。表現よみしてイメージをわき起こすときに不自然な語句は入れ替えた。

 以上の指摘について、その具体的な作業は「銀河鉄道の夜」の添削を参照してほしい。また、賢治の研究者からのコメントなど、いただけたらありがたいと思っている。
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2009年03月23日

ドラマリーディング「銀河鉄道の夜」構成

 表現よみO(オー)の会は5月2日(土)に福島のギャラリーで「銀河鉄道の夜」のドラマリーディングをする。そのために、わたしは今、台本の作成をしている。もとにしているの新潮文庫のものである。

 「銀河鉄道の夜」は未完の作品といわれているが、実際に手を入れていくうちにいろいろとわかったことがある。作品をノーカットでよんだらおそらく、一時間半くらいになるだろう。これを30分くらいにまとめようとしている。まずは大きく削れるところを削ってみた。(画像参照

 第1に気になるのは結末だ。カンパネルラと旅をしたジョバンニが最後に母親の牛乳をもって家に帰るというのは、やや興ざめだ。銀河鉄道をいっしょに旅をしたときに交わしたふたりの決意はどうなるか? そのあたりを気にしながら、細部に手を入れ始めた。
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2007年11月18日

文学作品を声でよむことの意味―朗読と表現の狭間

 人が本を読むとき、その人がその本をどのように読んでいるのか、それを知る手がかりがないのだろうか。これが以前からわたしの感じていた疑問である。

 そうして辿りついた考えは、作品の理解を声に表現することによって、その人の読み方が分かるということである。それぞれの人の読み方は声に表現されることによってわかる。聞き手も、その人の読み方を聞いて、その人の理解を知るのであろう。

 これと似たものにクラシック音楽の演奏がある。演奏というものは演奏家が楽譜をどう理解したかを示すものである。楽譜の理解によって演奏はさまざまに変わってくる。これと同じように、文学作品の理解を声の表現によって示すという方法があってもいいだろう。わたしはこれを表現よみに求めているのである。

 文学作品はいわば音楽の楽譜である。必ずしもすべての作品が演奏されるとは限らないが、多くの人たちは音楽の楽譜として文学作品を読んで、書き手の声を想像しているのである。いわば、音楽を聴かずに音符を頭でイメージして理解しているのだ。

 ならば、音楽の楽譜を演奏する演奏家がいるように、文学作品においても、演奏家としての「よみ手」があってもいいだろう。わたしが実践している表現よみは、いわば文学作品の演奏である。そして、演奏するうちに作品の創造的な鑑賞力がつくのである。
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2007年10月19日

太宰は「人間失格」で「吉野山」の笑いをねらった!

恒例の表現よみ独演会を2007年11月4日(日)に予定している。その練習をしていてはっと気がついたことだが、太宰治の新釈諸国噺シリーズ「吉野山」のユーモアは「人間失格」に通じるものだ。

 わたしの考えでは「人間失格」は太宰治の失敗作だ。笑わせようないしは笑おうとしつつも、笑いを生み出せず、どんどんめいってしまう作品になったのだ。精神的にも肉体的にも弱り切った太宰の悲劇のような作品だ。

 ところが、同様の「語り口」を持ってみごとに成功しているのが「吉野山」である。わたしのよみでそのあたりをお聞きくだされば幸いである。

表現よみ独演会 第12回 渡辺知明のよみとお話
  特集=近代文学の味わいと笑い
と き :2007年11月4日(日) 開場2:30PM 開演3:00PM
ところ :ニューオータニイン東京「かえで」(JR山手線大崎駅東口1分)
会 費  :前売2,000円(当日2,300円/全50席)

梶井基次郎 「筧の話闇の絵巻」 湯ヶ島の昼と夜の風景
中島  敦 「弟  子」 孔子の弟子である子路の物語
太宰  治 「吉 野 山」 「新釈諸国噺」より隠遁者の書簡

●予約とお問い合わせは、コトバ表現研究所へメールでどうぞ

 【渡辺知明の「新釈諸国噺」シリーズ】お話しPod ケロログ
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2007年08月19日

朗読と「語り」のための小説――吉川トリコ『しゃぼん』と辻原登『円朝芝居噺 夫婦幽霊』

 「語り口」がすばらしく、内容もすばらしいという小説はなかなかない。しかし、最近、次の2冊をおもしろく読んだ。

 ●吉川トリコ『しゃぼん』2004新潮社
 ●辻原登『円朝芝居噺 夫婦幽霊』2007講談社

 表題作「しゃぼん」の主人公は30歳になろうとする女性で自らの「語り」の形式だ。一見、なんということはない日常的なつぶやきの向こうに主人公の置かれた状況と生きる迷いが浮かびあがる。太宰治「女生徒」を思わせるみごとな「語り」だが、それ以上に、作者の批評の精神に魅力がある。
しゃぼん
しゃぼん吉川 トリコ

おすすめ平均
starsとなりの生活
starsもう一声!
stars胸がキューッとなる本
stars全ての女性にお勧めします
stars意外と淡々

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 『円朝芝居噺 夫婦幽霊』は、作者の「語り」による構成である。そこで展開されるのは、円朝の速記本を巡る話題である。そうして紹介される円朝の「夫婦幽霊」がおもしろい。まさに円朝が語ったかと思われる生き生きとした「語り」である。終わりごろになって、二葉亭四迷からの引用や中島敦「悟浄出世」に似た表現が出てくると、「おや、これはフィクションなのか」と疑うたのしみもある。
円朝芝居噺 夫婦幽霊
円朝芝居噺 夫婦幽霊辻原 登 菊地 信義

おすすめ平均
stars円朝作としては、物足りない・・・。
stars非常に上手い構成の洒落た作品
stars落語を聞く楽しみがひとつ増えたかも

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 というわけで、この2冊は朗読や「語り」をする人たちがとりあげるのに最適の作品なのである。わたしも近ぢか表現よみしてみようと思っている。(2007/10/2追加=声でよむ名作本シリーズ『しゃぼん』『円朝芝居噺 夫婦幽霊
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2007年08月05日

「朗読」ではない柳家小三治の表現よみ!

 知人から小三治の朗読CDを頂戴した。藤沢周平「驟り雨/朝焼け」(2000新潮社)の二枚組である。さっそく聴いた。感動した。すばらしい。これぞ表現よみである。

 これは朗読ではない。表現である。既成の朗読とはまるでちがう。文や文章をよみあげて聴かせるのではなく、自らの声で自らの世界を創造しているのだ。わたしは小三治の落語の大ファンであるが、その良さがよみでも表現されている。話し手の声の響きと語られる世界とのあいだにまったく隔たりがない。わたしの師である大久保忠利のスローガンでいう「はいる→なりきる→のりうつる」の境地である。

 今、世間ではさまざまな「朗読」がCDとなって発売されている。一年ほど前のアンケート調査では、80%の人が「朗読は金を出しては買わない」という答えであった。それには納得できる。だが、小三治さんのよみなら「朗読」ではないのだから買ってソンはない。上にリンクしたとおり、その後、松本清張「左の腕/いびき」(2003新潮社)も出ているので、こちらも期待できそうだ。
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2007年07月31日

新発売!?「語り口」ミニ朗読CD付き小説

 新発売とはウソである。わたしの希望と提案である。小説には「語り口」がある。文体に潜在している「語り手」の声の響きである。わたしたちが小説を読む場合、じつはこの「語り手」の口調、つまり声の響きをイメージして読んでいるのである。落語家の話しぶりと筆記落語の関係、タレント本の文体と本人の「語り口」との関係などは、そのいい例である。

 文学的な作品というものは、この「語り口」が生き生きしたものほど魅力的である。しかし、文学作品の読書に不慣れな人は「語り口」を見つけるのがむずかしい。そこで、わたしの提案は、小説本に15分くらいの「語り口」を紹介するミニCDをつけたらどうかというのである。

 じつはすでに、わたしの企画でまるまる全編を収録したCDブックがある。『ロシアのクリスマス物語』(群像社)である。これは5作品70分という大作である。「語り口」の紹介ならば15分でいい。ただし、問題がある。単なる文章のよみあげでは、「語り口」の紹介にならない。いわゆる「朗読」ではだめなのである。そこで、わたしの提唱する表現よみということになる。

 今年度の『NHKアナウンサーのはなす・きく・よむ(声の力を生かして編)』(2007年版)でも、今後の朗読の発展方向は、この「語り手」や「語り口」の表現にあると述べられている。つまり、文学作品の文体を生かす朗読、「語り手」を再現する朗読、「語り口」を表現する朗読というものが表現よみなのである。

 わたしのこの提案を実行するような出版社が出てこないだろうかと期待している。この発想は出版における「おまけ付きグリコ」のようなものである。わたしは子どものころのおまけの小箱を開くときの期待感を今でもありありと思い出せるのである。
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2007年07月07日

「朝の読書」に表現よみを取り入れる

 わたしが最近、毎日のように手を入れている『Web表現よみ入門』のサイトから、「朝の読書」に表現よみを取り入れる方法を書いたモノヲ紹介します。

 今、日本全国で「朝の読書」というものがさかんになっています。子どもたちひとりひとりが独自のペースで読書ができるのはとてもいいことです。しかし、残念ながらこの読書運動もまだ黙読することを常識として実践されているようです。せっかくの読書なのですから、文章の理解をより深められる表現よみを取りいれたいものです。

 やりかたは簡単です。よみ手自身に分かるような声を出しながらよめばいいのです。授業で代表としてよむときのような大きな声は不要です。自分にだけ分かればいいのです。声そのものに気を使う必要がありませんから、もっぱら文章の理解と解釈に集中することができます。しかも、黙読の理解がいったんは自分の声で表現されるわけですから、よみ手はその声を聞きなおして理解や解釈の内容を確認しながらよむことができます。

 「クラスの全員が声を出したら自分の声も聞こえないのではないか?」という心配があるかもしれません。それに対しては、まず、先生が生徒に、自分で聞こえるだけの小声でいいことを伝えます。これは人に聞かせる大きな声と自分だけに聞こえる小さな声の訓練にもなるわけです。そして、周囲の声を気にせずによむための工夫としては、(1)耳のうしろに手のひらを当てて囲むようにすること(2)耳に指を入れたりしてふさぐことの二つがあります。(1)では、自分の声がよく耳に入るようになります。(2)は、外の音を遮断することで自分の内部から声を聞けるようになります。

 表現よみは、黙読による理解を声の表現によってフィードバックするのに最適な方法です。これからは、「朝の読書」といったら、教室から子どもたちの声が聞こえてくるにぎやかなものになってほしいと思います。
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2007年05月21日

聴く力が読解力を高める―音韻表象力の鍛え方

 わたしは表現よみの録音をネットで公開している。漱石「こころ」を聴いた若い女性が「聴いていて内容が理解できない」ともらしていたことがある。わたしのよみ方の問題ではなく、そもそも自分にコトバの理解力がないのだそうだ。

 わたしは自分が子どものころ、ラジオの落語や講談を聴いていたときのことを思いだした。最初のころには、それがどんな話なのか分からなかった。だが、しだいに話の内容も理解できて、そのおもしろさが分かるようになった。それは文字で書かれた文章を読むのとはちがった能力が要求されるのだ。

 以前にディープ・リスニングというコトバを紹介したが、耳で聴くときには、聴いた声のイメージをアタマに浮かべながら、コトバの内容を理解するのだ。それと同様に、目で文字を読むときにも、この声のイメージは働くのである。どちらの場合にも共通する声のイメージは、学術的には音韻表象と呼ばれる。

 音韻表象が的確にアタマに浮かぶようになれば、話を聴く力も本を読む力も伸びるのである。それをきたえるのに、一つの有効な方法が「声でなぞる」という訓練である。そのための表現よみの録音は、いくつか上げてあるので、ぜひとも実行してみてほしい。
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2006年05月29日

『吾輩は猫である』をよむならこの本で!

 東京新聞の夕刊で「吾輩は猫である」の連載をしている。昨年は「吾輩は猫である」が書かれて100年だった。わたしは夏目漱石の代表作は「吾輩は猫である」と「こころ」であると思っている。とくに「吾輩は猫である」は声に出す作品としてすばらしいもので、わたしもいくつか表現よみして発表している。

 以下の記事は昨年八月に「朗読に使える良質デザイン本」というタイトルで公開したものだが、また、あらためて紹介したい本があるので公開する。

 「朗読ブーム」によって、声に出して読む本というものが数多く出版されている。ところが、手に取ってみると、ただ単に活字を大きくしただけのものが多い。いや、ほとんどの本がよみやすさにおいては失格といってよいだろう。売れるわけがない。売れても、よまれないだろう。活字が大きければ読みやすいというのはまちがいである。活字が大きくなると、いろいろな問題が出てくるのだ。

 第1に、1ページで目に入る文字の量が少なくなるだけで読みにくくなる。内容を理解して読み進むことができなくなる。先の見通しがつかなくなるからだ。1ページの割付けにおいては、一行の文字数と行数が問題になる。

 第2に、文字が大きいと一行の文字数が少なくなる。すると、文字と文字のあいだ、行と行とのあいだも広くならざるを得ない。文章をよむことは、一文字ずつよむのではない。いくつかの文字の組み合わせを文の要素としてよみとって、さらに、文としてのつながりを判断しながら読むのである。
文字のあいだ、行のあいだが広くなると、それだけ視覚的な関連づけがしにくくなる。

 第3に、紙のめくりやすさなども問題になる。大きくすると紙が固くなる。固いとめくりにくくなったりする。また、手に持って読む場合の本の重さなども問題だ。

 このほかにもいろいろな問題があるが、この辺にしておく。「それでは、どんな本がいいのだ」という人がいるだろう。そこで、タイトルの「良質デザイン本」ということになる。読書ばなれが問題になったり、ネットのデジタル書籍などが無料で入手できる時代である。本の価値は、以上のようなよみやすさを備えた物にする必要がある。そんな本こそ、売れる本である。

 今回の紹介は、夏目漱石『吾輩は猫である(上)(下)』(1996偕成社) である。この作品はさまざまなかたちで出版されているが、これが声でよむための本の決定版である。活字の大きさ、文字のあいだ、行のあいだ、ルビのつけかた、改行の仕方など、どれをとってもすばらしい。今後、わたしがテキストを持って「吾輩は猫である」をよむために愛用したい。(Blog表現よみ作品集「夏目漱石集」)
猫(偕成社)上猫(偕成社)下
吾輩は猫である〈上〉
吾輩は猫である〈上〉夏目 漱石


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吾輩は猫である〈下〉
吾輩は猫である〈下〉夏目 漱石


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posted by 渡辺知明 at 18:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 本と読書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする