東京新聞(2009/04/16夕刊)に「賢治テクストが危ない!」と天沢退二郎氏が書いている。『新校本宮沢賢治全集』が完結したのを機会に、賢治のテキストが、さまざまに書き直されて読まれていることの問題をとりあげたものである。
わたしはいま「銀河鉄道の夜」のドラマリーディング台本を作成している都合上、わたしのことでも言っているのかと買いかぶるほど気を引かれた。作品の校訂作業は非常にたいせつなものである。だが、読者の立場からの作品の享受を考えたときに、わたしなりの言い分もある。それ賢治作品に限られずに、「作品をよむ」という場合の根本的な問題につながるものだ。
たまたま手にしている「銀河鉄道の夜」を例にしたい。わたしのドラマリーディング原稿はもとの原稿の半分くらいの長さになっている。わたしは最初、原稿に忠実に部分的な切り取りでドラマリーディング台本を仕上げようと考えていた。だが、緻密に読んで行くにつれて、原稿の不備が気になってきた。賢治らしからぬ文章のアイマイさに満ちあふれているのだ。それで添削をすることにしたのである。(その結果は一部
画像で紹介している)
また、もともとの原稿も第一次稿は鉛筆書きの走り書きに近いものである。繰り返しきまり文句のような語句があったり、過剰な描写によって作品の効果を弱めるところも多いのだ。そこで、わたしは音声表現をめざしての添削をした。それは、おそらく、賢治が推敲を続けたならば、そうなったであろうものであると、わたしは信じている。
ところで、作品をよむという作業はどんなものだろうか。わたしは、読者は作品に対する添削者であるという考えを持っている。文学作品については、字面どおりのよみとりというのはほとんどないだろう。つまり、読者は作品の文章をよみながら、ある語句や文アクセントを置き、ある部分については飛ばして読み、結局、自分に理解しやすい所などを拾っているのである。
そのような作業によって、作品は読者によってゆがんだ形になってくる。それは、朗読といういかにも中立的なよみかたをしてみても、文字のデータの基礎的な正確さだけでしか実現できないのである。それは、文学のよみの作業ではない。わたしのように意識的にアクセントやプロミネンスをつけて作品を表現したときに、文学の読みの個人性というものが見えるのだ。
では、天沢退二郎氏のような校訂者の役割はどこにあるかというと、文字としての文学作品の基礎的な正確さを定めることにある。作品の文字としての正確な存在があるからこそ、わたしはそれを基礎にして表現に可能性を探ることができるのだ。一般には、安易にテキストを変更して、そこに創造性があるとか、テキストの表現の吟味をせずに、朗読は個性の表現であるというような考えもあるが、それこそ、文学テキストの厳密性とよみとりの深さを理解しないものである。
何はともあれ、わたしは「銀河鉄道の夜」のドラマリーディング台本によって、わたしのよみとりというものを示そうと思っているのである。それは、原文テキストの正確さをこわすものではなく、それぞれの読者がどのように作品をよんでいるのかを示すひとつの例であると考えるのである。