そうして辿りついた考えは、作品の理解を声に表現することによって、その人の読み方が分かるということである。それぞれの人の読み方は声に表現されることによってわかる。聞き手も、その人の読み方を聞いて、その人の理解を知るのであろう。
これと似たものにクラシック音楽の演奏がある。演奏というものは演奏家が楽譜をどう理解したかを示すものである。楽譜の理解によって演奏はさまざまに変わってくる。これと同じように、文学作品の理解を声の表現によって示すという方法があってもいいだろう。わたしはこれを表現よみに求めているのである。
文学作品はいわば音楽の楽譜である。必ずしもすべての作品が演奏されるとは限らないが、多くの人たちは音楽の楽譜として文学作品を読んで、書き手の声を想像しているのである。いわば、音楽を聴かずに音符を頭でイメージして理解しているのだ。
ならば、音楽の楽譜を演奏する演奏家がいるように、文学作品においても、演奏家としての「よみ手」があってもいいだろう。わたしが実践している表現よみは、いわば文学作品の演奏である。そして、演奏するうちに作品の創造的な鑑賞力がつくのである。