昨夜、テレビである演劇の舞台を見た。男女の往復書簡を舞台化したものだった。見ていて、というよりも聞いていて、違和感を抱いた。こんな台詞回しで、人間の感情や思いが聴き手に届くのだろうか。
演技者たちは、今の日本ではいわば一流と呼ばれる人たちである。ところが、そのコトバからはまったく人間の存在感が感じられない。いわゆる新劇調というものである。そのようなコトバと声の響きが今の日本では常識になっているようである。
それと同様に朗読や「語り」といった音声表現のジャンルでも、生きていないコトバ、生きていない声に満ちあふれている。一般には人の心に食い入らないコトバであっても、文字づらの意味さえ伝えればいいといわんばかりである。
だが、コトバの深い意味は文字づらにあるのではない。個別のひとから個別のひとに、なんらかの意味あることを伝えるためには、どうしても音声化されたコトバ、音声のイメージを抱えたコトバでなければならない。
文学の世界では、「語り口」や文体の感じられる作品がなくなっている。まるで新聞記事のように規格化されたひとの声の響きの感じられない作品がほとんどである。もともと言語は音声として生まれたものだ。それがたまたま文字の発明によって、いわば冷凍保存されて記録され、遠方に送られるようになった。
1970年代に無農薬の食品や自然食、健康食のブームが始まったが、30年以上かかって、最近やっと常識のようになった。ジュースも濃縮還元ではなく、天然果汁のうまさが見直されてる。
言語表現についても、冷凍保存や真空パック詰めではないものがほしい。それは生きたコトバだ。新鮮でなければならない。だが、それは日持ちしないものだ。だからこそ、日々の変化と発展をめざすのだ。
2007年09月15日
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