2007年08月05日

ジャック・デリダと「聞き手ゼロ」の朗読理論

 わたしの表現よみにおける師である大久保忠利は、かつて朗読に対して「聞き手ゼロ」を提唱した。それが今になってますます意義のあることと思うようになった。

 というのは、さまざまな朗読や「語り」や舞台の演技などの声を聴いたとき、気になるのは、どこまでも文章を読んでいる感じ、人に聴かせているために声の表現が空虚になっている感じがすることだ。そのいい例が外国映画の吹き替えである。友近さんが演ずるところのキャサリンの声のしらじらしさは、そんな吹き替えに対する批評である。多くの朗読や「語り」も似たようなものなのである。

 つまり、声の表現が発信者のもとにとどまることなく、聞き手に押し出されているのである。声と発信者のあいだに何か隔絶した一線が引かれている感じなのだ。今になって、大久保氏が「聞き手ゼロ」といったのは、このような声に対する批評であったのだと思う。それが表現よみというよみ方の提案となったのだ。「舞台や映画のセリフのやりとりをマネるな」とは繰り返し言われた忠告だ。「日常のリアルな人と人とのやりとりを表現せよ」とも言われた。

 最近、ジャック・デリダ『声と現象』(2005ちくま学芸文庫/林好雄訳)を読んでいる。デリダがフッサールの本を批評的によんで解釈するものである。むずかしい内容でなかなか意味がつかめないのだが、記号としての言語のはたらきを、伝達と表現とに分けているようだ。そして、伝達の声と表現の声とのちがいを解明しようとしているらしい。
声と現象
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 伝達の声が聞き手に伝えるものであるのに対して、表現の声は独り言のように発声者みずからが、みずからに聴かせるような声だという。それは人に意味あることを伝えようとする声ではないというようなことを書いている、らしい。――と、わたしには「らしい」つきでないと語れないのだが、おぼろげながら声の「表現」というものの特質が見えてくる。

 そして、わたしの関心は、文字や文章を読み上げるのではなく、まさに自らの声を表現とするような身体的な訓練がどのようにして実現できるのかというところにある。このレベルからいうと、既成の朗読や演技などの声の表現の99パーセントが表現にはなっていないと思われる。

 もしも、デリダにくわしい方がいて、言語と声の関係についていろいろとご教示くだされば幸いである。
posted by 渡辺知明 at 08:01| Comment(0) | TrackBack(1) | 音声表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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