それに対して、いわゆる素人の朗読というものがある。発声や発音などは、ナレーションやアナウンサーに比べたら、つやのないことが多い。しかし、その無骨ともいえるようなよみの背後にある強烈な思いというものが感じられる。それは、玄人慣れしたよみにはない魅力である。
今後、もしも朗読が商品になるとしたら、それは絵画と同じように二系統に分かれるだろう。一つは、いかにも玄人風の「売り絵」のような朗読、もう一つは、後になって「これはすばらしいのだ」と発見されるような表現としてのよみである。それは後に芸術と評価されるかもしれない。
後者のようなよみには商品としての画一性、標準性はないが、よみ手自身の全生命をかけた表現としての魅力がある。また、そのようなよみをする人自身、作品をよむという行為によって、自らの言語能力を高めているにちがいない。それはまた自らの人格を高めることにもなる。
ちなみにゴッホの絵は存命中には一枚も売れなかったという実例がある。朗読の本質は、耳ざわりのいい声の響きにあるのか、それとも、作品の内容やよみ手の真実性の表現にあるのか、それはあらゆる芸術について問われる問題と同じことなのである。【関連】『Web表現よみ入門』