2007年05月19日

文字への感覚と声への感覚

 文章指導と朗読との関係で思いついたことがある。文章に上達するには、書かれた内容を受け取るだけではダメである。内容がどのような形式によって表現されているか意識できないと、いつまでも文章が上達しない。作文教育では、これを「ガラスの意識」と呼ぶ人もいる。つまり、文章に書かれた世界は常に「ガラス」としての文章の形式を通じてよみとられるのだ。

 今朝、新聞の活字を見ていて思いついた。新聞記事などでも同様である。見出しや小見出しがどのような字体で書かれているか、明朝体か、ゴチック体か、どのような地紋が付けられているか――文字の意味と文字の形態とは区別されなければならない。文字の形態からは、文字の意味からは浮かばないような感化的な表現が生まれる。

 朗読ではどうか。声が担う情報的な内容は単純に文字化できる。情報の伝達を目的にするようなアナウンサーやナレーションならば、その程度の音声化でいいだろう。だが、表現としての朗読を考える場合には、文字化できない声の響きが問題になる。ここに、朗読が表現となるかどうかの秘密があるのだ。

 朗読してメッセージを情報として伝達するような場合には、朗読の表現面は問われない。だが、文学作品の表現となると別である。とくに聞き方が問題である。聞き手の聞き方ばかりではなく、読み手の聞き方が問題なのだ。読み手が情報の面ばかりを音声化するなら、そこから表現は生まれない。また、聞き手が情報ばかりを聞き取るなら、朗読は表現としての意味を持たないだろう。朗読の聞き手の耳の成長が、読み手の表現を成長させるのである。
posted by 渡辺知明 at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 音声表現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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