2007年03月27日

文章推敲力を育てる添削入門講座(22)大学編

◎ある大学で文章添削の実践者のための講義をしました。あらためて驚いたことは、文章の書き方の本は数多くあっても、添削や推敲について書かれた本がほとんどないということです。そこで、わたしはあらためて、文章力の養成を、添削と推敲の角度から考えることになりました。2日間で通算7時間の講義の記録に手を入れて少しずつ公開します。(2006.2.21、2006.3.7。第1−12回は旧サイトにあります)

【連載】第22回
●カギカッコと丸カッコでくくる
 第二に、理論文の場合でも、人の語ったことばにカッコをつけて読みます。会話にはカギカッコが付いているのが普通ですが、付いていなくても、だれかが口にしたことばならばつけます。いわゆる間接話法の部分です。こうすると、書き手のことばから書き手以外の人が語ったことばを区別して確認できます。
 また、人が心の中で思ったことばにはカッコをつけます。カギカッコと区別するために丸カッコと呼びましょう。言語学では「内言(ないげん)」と呼ばれることばの部分です。意識の外に出ずに人の心のうちで表現されることばです。人物の内面にあることばです。いわば心のうちの思いを表現したことばです。
 さて、この文章では(資料参照)、1枚目の6段落に内言の例があります。
添削資料01添削資料02
「……と思い込んでいる」という語句が目じるしです。その前の(客観的・中立的立場を求めなければいけない)という部分が内言です。書き手が学生たちの思いを表現します。「杓子定規に」を丸カッコの外に出しました。これは書き手による批評のことばです。つまり、書き手は学生たちに対して、(客観的・中立的立場を求めなければいけない)と思うことは杓子定規ですよ。よくありませんよと批評しているのです。
 どんな文章にも、このように書き手が他人の意識をとらえる構造があります。それは書き手がだれかと対話的に関わろうとすることから生じます。書き手のことばと他の人のことばとが、相互にからみあって書かれています。その関係を明確にするために、このようにカギカッコや丸カッコをつけるのです。
 ただし、理論文の場合には、丸カッコをつけるような表現はあまり使われていません。それに対して、文学文の表現にはたくさん出てきます。たとえば、太宰治の作品では、ひとりごとのような内言が延々と続く場合がめずらしくありません。そこに丸カッコをつけて読むと、人物の内面の動きがよく分かります。書き手や人物の気持ちや心理などは、このようなかたちで文章に組み入れられるのです。それは一般の文章にも応用できる大事な表現なのです。
 では、以上で、印しつけよみについては終わりにしましょう。

●文章の批評的な読み方
 ところで、今回課題に出されたこの新聞記事の文章は、よむのにとても時間がかかりました。正直なところ、いい文章ではありません。考えの論理構成が明確ではないからです。少し解説をしましょう。
 赤ペンの印しがいろいろと付いています。文章を読むときの印しつけは鉛筆でしますが、添削の場合には、いわば印しつけを赤ペンで行うことになります。レジュメで「項目」の印しつけと書いた例が、今回の文章の2枚目の5行目あたりにあります。9段落です。
 書き出しは次のように書かれています。(数字は段落番号)
 9「戦後日本の教育は、社会や伝統の抑圧に抗して個人の権利と自立性の尊重を強調してきた。」
 字づらを見ても理解しにくいので、名詞句を山カギでくくって、項目の丸数字を振ってあります。活字に直せば次のようになります。
 9「戦後日本の教育は、社会や伝統の抑圧に抗して〈個人の@権利とA自立性の尊重〉を強調してきた。」
 「個人の権利」が@です。そして、「個人の」は「自立性」にもかかりますので、項目番号は「権利」に@、「自立の尊重」にAとつけました。それぞれの項目は、「@個人の権利」、「A個人の自立性の尊重」となります。
 この文章の論理的な内容で問題になるのは、9段落、10段落あたりです。山カッコによって名詞句が目立ちます。このかたちで修飾語を重ねて、論拠なくいっきに論じてしまうのです。
 その例は、10段落の下から2行目です。〈個人主義思考を無批判に是とする教育〉とあります。このことは、これまでのどこに書いてあるのでしょうか。どこにも書いてありません。「個人主義的思考」とは、どんな思考でしょう。学生たちの発言のことでしょうが、それは例ではあっても定義ではありません。9段落の「個人主義」ということばを、10段落で「個人主義的思考」とまとめます。そうして、このような結論にしてしまいます。そこに至る論理の展開も説明もありません。
 9段落に「しかし、個人主義は両義的である。」と書かれています。しかし、この「個人主義」についても定義はありません。九段落、十段落は、いわばどさくさまぎれに持論を書いてまとめたようです。書き出しの、いわゆるイントロ部分、1段落から3段落から6段落あたりまでは、まったくムダなエピソードが語られています。言いたいことは、最後の一段落です。ところが、どさくさまぎれに書かれたので論理がありません。新聞にはコラムのような記事として掲載されたのでしょうが、もう少し論理の構成が必要です。添削したくなる文章です。
 以上、この文章はわたしの印しつけの見本としてお配りしました。(つづく)
ラベル:文章 添削 推敲 作文
この記事へのコメント
 いきあたりばったりの文ですね。書いているうちに自分の言いたいことが最後に出てきた感じです。わたしにもよくあります。なのであとで読み返してみると、論理的に繋がりづらいんですよね。
 もともと推敲不足の文章ですから、渡辺さんが添削したくなるというのもよくわかります(とわたしが言うほど自分自身文章がうまいわけではないですけど)。
 あとこのコラムの人、難しい言葉をやムダな修飾語が多いですね。それらを消すだけでも読みやすくなりそうです。
Posted by 難波鷹史 at 2007年03月29日 17:59
コメントありがとうございます。わたし自身、文章を丁寧によむには、どのような方法があるか研究しています。読み方が変われば、自分の文章も丁寧に書けるようになると思っています。むずかしい文章が必ずしも、読者の責任ばかりではなく、書き手にも責任の一端があるということになるでしょう。
Posted by 渡辺知明 at 2007年03月31日 18:01
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