2007年03月10日

「はなしがい通信」244号(2006年11月)考えるための作文教育

 言語理論を学んでいる読書会で、わたしは作文について書かれた一節に出会いました。注目したコトバを青字にして紹介します。
 「作文というものは文章による表現能力の訓練のために存するもので、形式的陶冶による教育の一手段にすぎないものであって、それが仮に論議的なジャンルないしスタイルのものであっても、議論の内容そのものは、そこでは元来問題ではないのである。」(戸坂潤『思想としての文学』1936)
 これは、作文には価値がないといっているのではありません。それどころか、作文教育の本質的な意味を改めて問い直すコトバなのです。
 戸坂潤(1900-1945)は哲学者です。作文教育の意義を深くとらえています。日本の哲学者の中で、これほどコトバにこだわった人はいません。今では、コトバを問題にする学者はめずらしくはありませんが、七十年も前のことなのです。プラトンやアリストテレスの時代から、哲学者はコトバというものにこだわってきました。そもそも哲学とは、ものごとを根本から考えることです。考えることとコトバのはたらきとは深い関係があるのです。

●人間・考え・コトバ
 「人間はコトバを使って考える」というと、「いや、そればかりじゃないよ」という人がいます。たしかに、考える手段はいろいろです。画家は線と形と色で、彫刻家は体積や容量で、ダンサーは体で考えます。つまり、考えるためには、「考え」の乗り物となる手段が必要なのです。それらの手段の中で、人間ならだれでも使えるもっとも手近な手段がコトバです。コトバのはたらきは、@話し、A聞き、B読み、C書き、と四つあります。
 もともとコトバは音声ですから、「話し・聞き」のやりとりが基本です。だれかが話したコトバを別のだれかが聞いて、人から人へと考えが伝わります。頭に浮かんだ観念がコトバと結びついて「考え」になります。本を読んだり映画を見て感じたことについて、人と話をすると自分の考えがはっきりするのも、コトバが使われているからです。さらに「読み・書き」となると、文字を使ってもっと厳密に考えることができます。

●作文教育の考え方
 現在、学校では、どのような作文教育が行われているでしょうか。わたしが知っているのは次の二つです。
 @お手本とする文章を写す――昔から行われている作文教育法です。名文といわれる文章をそのまま書き写したり、それを下敷きとして文章を書くような教育方法です。
 A出された題について書く――題名や「○○について」などとテーマを出して書かせるものです。学校では「行事作文」などと呼ばれています。旅行に行けば旅行のこと、運動会があれば運動会のこと、といった具合です。
 どちらも、作文を書かせるきっかけにはなりますが、どのように書けばよいのかという指導がありません。
 私自身、小中高と作文の書き方というものを教わった覚えがありません。わたしが文章を書けるようになったのは、大学に入学してから意識的に日記をつけたのがきっかけです。高校のときにも、ときどき日記はつけていましたが、どのように書くかということは考えずに、まったくの自己流でした。
 考え方には、きまりがあると知ったのは、大学で「論理学」に出会ったときです。それは哲学の一分野でした。「考え」は、コトバで組み立てるものだということも知りました。それがわたしの哲学の目覚めでした。
 というわけで、わたしは、考えを組み立てる学問として哲学を学び始めました。その後、いろいろな哲学書を読みましたが、日本の哲学者の中で最も優れているのが戸坂潤の哲学だと思います。ひとことで言うと、唯物論の哲学です。現実を根拠にしてものごとを考えて、現実を変革するための哲学です。

●考えるための作文教育
 作文について戸坂潤の考えのポイントは三つです。
 (1)作文は教育の手段である。
 (2)作文は文章を使って表現する能力を訓練するためのものである。
 (3)作文は形式的な面から文章による表現能力を鍛える手段である。
 作文は論文と対比されています。つまり、論文は、内容の価値が問題にされますが、作文は、形式から内容に迫るための訓練です。最初から価値ある内容が書けるわけはありませんから、形式にしたがって考える訓練が必要です。それが作文の教育です。
 わたしも、以前から考える力をつけるための文章指導をしてきました。形式の面から、考え方つまり書き方を鍛える教育です。そのために、いくつかのレベルから訓練方法を考えています。それは次の三つです。
 @単語で考える A文で考える B文と文の関係で考える
 @単語でできることは、比較と分類です。まず、思いついたことを単語で羅列します。それから、単語同士を比較して、共通性においてまとめます。まとめ方は一通りではありません。考えの角度を変えると、共通性も変化します。たとえば、「トマト」は、「キュウリ」といっしょに野菜に分類されます。しかし、色では「郵便ポスト」、形では「サッカーボール」の仲間になるのです。
 A文でできることは「判断」です。文は主部(ダレガ・ナニガ)と述部(ドウスル・ドウダ)との組み合わせでできています。それが「考え」の基本単位です。「金、飯、風呂」などの単語を言うだけでは「考え」にならないので人に伝わらないのです。
 B文と文が論理的につながって文章になります。文と文とのつながりは接続語による論理によって分類できます。わたしは接続語を十一通りに分類して、考え方の論理的な展開をとらえています。
 以上のように、三つのレベルから作文教育の形式的な訓練ができます。わたしはそれを「文章トレーニング」と呼んでいます。
 論理学を現実に生かすためには、「考え」は文章のかたちにまで具体化して表現されねばなりません。それによって、初めて「考え方」の教育になるのです。そう考えると、哲学者である戸坂潤の作文教育の考え方がいっそう深い意味をもってきます。(過去の「はなしがい通信」)
posted by 渡辺知明 at 19:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 「はなしがい通信」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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