2007年01月27日

「はなしがい通信」243号(2006年10月号)日本人の発声と訓練法

 九月に終了したNHKテレビの朝の連続ドラマ『純情きらり』の主役の宮崎あおいさんの演技は素晴らしいものでした。しばらく朝のドラマに注目しなかったわたしも、しばしば画面に引きつけられました。しかし、その声についてはずっと気になっていました。アニメ映画の吹き替えのような幼児声なのです。新聞の投書にも、「主人公が成長して行くのに主役の女優が若いままなのはおかしい」というものがありました。せめて、あの声がおとなに変わるだけでも、成長過程は表現できたでしょう。

●日本の伝統的発声法
 わたしはこの十年ほど、意識して自分の声の発声法を工夫してきました。近ごろは、「方丈記」や「おくのほそ道」などの古典のよみを録音して、インターネットで公開しています。
 そして、気がついたのは、日本の伝統的な発声法があるということです。しかし、現代の日本人には伝統的な発声法ができなくなっているのです。そのいい例が時代劇です。時代劇そのものがテレビでも映画でも少なくなっているうえに、俳優たちが時代劇らしい発声ができなくなっています。わたしが子どものころには、東映時代劇が全盛でした。歌舞伎の世界から移ってきた俳優たちが、これぞ時代劇の声という台詞の声立てを作り上げていました。中村錦之介、月形龍之介、東千代之介、片岡千恵蔵などのセリフの言い回しを聞けば、それがどのようなものか分かります。
 ところが、今の若手俳優たちが一言、セリフをいうと、いかにも現代風のものになってしまいます。とても時代劇とは思えません。
 日本の伝統的な発声法には、いくつかの特徴があります。腹の底から出てくる息、ノドの力を生かした発声、高低ではなく強弱によるアクセント、などです。
 発声の要素は4つあります。(1)息、(2)ノド、(3)舌、(4)口――現代風の発声ではとくに(1)と(2)に問題があります。一般にコトバの批判というと、発音やアクセントやイントネーションに向けられますが、むしろ根本は息の吐き方やノドの力の入れ方にあるのです。つまり、一つは、身体全体を使った力のある息が出せないこと、もう一つ、声帯周辺の筋肉に力を入れた強い声が出ないという問題なのです。

●米山文明『声と日本人』
 最近、米山文明『声と日本人』(1998平凡社選書)を読んで、学校教育における発声教育の必要性を感じました。数年前に、斎藤孝氏による「声に出して読む日本語ブーム」というものがありました。今ではずいぶん下火です。というのも、「読む」ということについて、発声指導の面でも、内容理解の面でも深まりがなかったからです。
声と日本人
声と日本人米山 文明


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 米山氏は、声帯を中心にして発声の研究をしている人です。大勢の外国のオペラ歌手の声帯の治療してきました。おもに、声楽の発声研究をしていますが、この本では、すべての発声行為、つまり話し声にも通じる根本的な発声法を提唱しています。
 わたしは、これこそ学校教育で行われるべき発声訓練の根本だと思いました。米山氏がその方法を思いつくにはきっかけがありました。じつは、わたし自身も同じ舞台から同じ印象を抱いていました。
 一九九二年に演じられた木下順二の群読劇『子午線の祀り』です。新劇、歌舞伎、能、狂言などのさまざまなジャンルから集まった役者たちが作り上げた舞台で、時には声を合わせて「群読」するというものでした。
 米山氏は、個々の役者のセリフ回しには感心しながらも「群読」について次のように書いています。
「ところが群読に入ったときふと気がついた。もちろん声の高さも強さも違うのは当然であるが、セリフもよくそろい、テンポ、タイミングも見事であはる。しかし何か物足りない。聞いているうちにそれが何であるのか次第に鮮明になってきた。/音源になっている喉頭原音と、喉頭から下部に生ずる体全体を含めた体壁振動があるか否かの問題である。確かに声の音色は多彩で変化に富み、それなりに素晴らしいのであるが、各種の声の土台となって喉頭部分より下で作られて支える共通の響きがないのである。聴いていて群読全体としての声の根底に大きな不安定感を持った。」
 わたしも同じ舞台を同じころ見て、ほとんど同じ感想を持ちました。当時のわたしは、発声に関する知識はないので、米山氏のような分析はできませんでした。しかし、今ではこの指摘がよくわかります。

●基本的な発声訓練
 米山氏の発声訓練は次のような方法です。
「受講者たちは第一段階では発声を離れて呼吸法を中心に学び、ある程度会得した段階から少しずつ声を作るところに進む。この発声に入る段階で、呼息の流れに乗はせて各自勝手に声を添えるように指示する。言葉ではなく、単一母音(各自勝手の母音、あいまい母音でよい)、音の高さ、強さ、持続、音質とも個人の自由である。この場合「声を出す」ということをとくに意識させないように、母音も明確な構音ではなく、「ウ」でもなく、「ア」でもないようなあいまいな声(動物のうなり声のような感じの音)を乗せながら呼気を送り続ける。/このようにして発せられた声の集合音はふしぎなことに、何とも言えないような溶け合った音になるのである。」
 これによって、前に挙げた二つの問題点のうち、息の吐き方は解決します。もう一つ残された問題として、ノドの力の鍛え方があります。こちらは、演劇、歌舞伎、能、狂言などのジャンルによって求められるものに差があります。また、話し声の分野でも、アナウンス、ナレーション、朗読、あるいは講談、落語、浪曲などによってノドの力の必要性には差があります。しかし、あらゆるジャンルに共通する発声の基本は次の二つです。
 1、高低ではなく、強弱でアクセントをつけられる能力――これで英語の発音のアクセントも向上します。
 2、口先からの発音ではなく、喉の奥で飲み込んだノドの力の入れ方――これはコトバと意識とのつながりを成り立たせる基本です。
 世間では、たかがコトバではないかという風潮が一方にはあります。しかし、声によるコトバの表現によって、思考能力が高まることはもちろん、自らの感情をコントロールしたり、意志の力や精神力を高めるられるのです。まさに、「コトバの力=生きる力」なのです。(過去の「はなしがい通信」)
posted by 渡辺知明 at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 「はなしがい通信」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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