2012年07月09日

2012年07月08日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
オーディオフブックと朗読作品には違いがある。オーディオブックは文字代わりの声が聞こえればいい。音声訳と同等だ。声に異様な感情がなければ許せる。それに対して、朗読では文体を声によって表現することが問われる。その声は作品に相応しい表情である。この聞き分け能力は先ず制作者に求められる。 at 07/08 13:54

WATANABE_tomo / 渡辺知明
親しい俳優から「朗読ではどこまで演技していいのか」と問われたとき、「本来の演技というものは何か」と問い返した。人に見せるとか、何かを示すのでなく、演技者自身が自らの台詞や動きの意味を認識することだ。そして、また野口三千三の「体操」の基本に辿り着く。人間として自らの人生が問われる。 at 07/08 12:32

WATANABE_tomo / 渡辺知明
表現者には批評のエネルギーがなければならない。体力・気力の衰えた太宰といっしょになって溜息をついていてはならない。中期の太宰の「新釈諸国噺」「お伽草紙」は批評のエネルギーに満ちている。そこからエネルギーをもらうために朗読することをお勧めする。それが聞き手を励ます朗読になるだろう。 at 07/08 12:17

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読と演劇の違いはなにか。朗読は主に小説、演劇は台本を声にする。小説の地の文と会話は台本としても読める。だが小説は最初から終わりまで「語り手」による「語り」である。作中人物の声は「語り手」の認識と感情により揺れ動く。作品の外から文章を見るのではない。それでは文章の読み上げになる。 at 07/08 12:11

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読レベルの向上のために、ある線引きが必要だ。アナウンス・ナレーションと朗読との仕切りである。プロの人達には明確な自覚がある。朗読には別の訓練が必要だと語る人は多い。気づかないのは、その周辺にいる一般の人たちである。朗読を学ぶつもりで無意識にアナウンスやナレーションをマネている。 at 07/08 11:49

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の「読み」には深い意味がある(『朗読の教科書』14頁)。せっかくの概念を「聞かせ」や「語り」へと移行させてしまわずに、徹底的に掘り下げたらどうか。朗読が伝達であるという考えは、アナウンスやナレーションから出てきた。声による「体操」とすれば、野口三千三の発想がすべて有効になる。 at 07/08 11:39

WATANABE_tomo / 渡辺知明
「読み聞かせ」は「読み」+「聞かせ」である。読むことの意識と聞かせる意識とが、どのように対立するのか、そこに表現の問題がある。「読み語り」という人もいる。「聞かせる」も「語る」も、ともに聞き手へのはたらきかけの意識が濃厚だ。野口三千三さんならば「自分自身の確認」を軸とするはずだ。 at 07/08 11:32

WATANABE_tomo / 渡辺知明
9月2日に、朗読劇ではなくドラマリーディングとして、チェーホフ「さくらんぼ畑(桜の園)」を上演するわたしには他山の石になる批評である。三谷幸喜さんがどのようにチェーホフと向き合ったか、劇場に足を運ぶ気はないが批評はもっと聞きたいものである。http://t.co/uQaOS0Xa at 07/08 10:13

WATANABE_tomo / 渡辺知明
アクセント辞典は文中から単語を取り出してアクセントを定めようとしたものだ。だが、語句は文中で声の表現として意味を持って生きている。原則としてプロミネンスされる語句から表現力を奪う可能性がある。「しカし」と「いワば」はもとの意味のアクセントではなく、「シかし」と「イわば」が自然だ。 at 07/08 08:33
posted by 渡辺知明 at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | Twitter発言「朗読」批評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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