2012年07月07日

2012年07月06日に渡辺知明が語る

WATANABE_tomo / 渡辺知明
だれにでも肉体的能力として自然な発声の機能が備わっているのに、自分の声を出せる人が少ない。野口三千三の考える「体操」からいうと、朗読のための発声・発音も、あらゆる人にとってつまり人間にとって基本となる能力なのだ。わたしは、『朗読の教科書』を書くことによってそう考えるようになった。 at 07/06 22:12

WATANABE_tomo / 渡辺知明
『朗読の教科書』で示した2音3音区切りのアクセント原理ならば、アクセント辞典が不要になるかもしれない。あらゆるアクセントが二者択一ないしは、三者択一で検討できるからだ。全くの初心者でない限りどっちが正しいか、美しいかの判断はつくだろう。しかも文のイントネーション原理にもなるのだ。 at 07/06 07:21

WATANABE_tomo / 渡辺知明
武者小路実篤「友情」を40年ぶりに読み返した。夏目漱石「こころ」のアンチテーゼとなる作品だろう。そんな指摘は文学研究者がしているのだろう。朗読劇にしたらおもしろいのは、後半の杉子と大宮との書簡のやりとりだ。こういう形式の作品はドラマにするのでなく声で表現するしかないものである。 at 07/06 07:11

WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読劇というと、どうして小中学校の学芸会のような感じがするのか。「朗読」の概念には、マイナスの評価からプラスの評価まで大きな幅がある。「政治家は原稿を朗読する」はマイナス、「朗読が心に響く」はプラスだ。プラスの評価に含まれる要素とは、表現性、個人性、責任性、自主性、積極性などか。 at 07/06 06:55

WATANABE_tomo / 渡辺知明
表現よみオーの会9月2日のドラマリーディング公演。チェーホフ『さくらんぼ畑(桜の園)』の台本作成のため参照する日本語訳の数々―湯浅芳子、神西清、佐々木彰、小田島雄志、牧原純、松下裕、小野理子、堀江新二。ロシア語は読めないが、これらの比較検討で自分のチェーホフの読みかたができる。 at 07/06 06:47

WATANABE_tomo / 渡辺知明
かつて『朗読の教科書』の必要性など私自身考えていなかった。発声・発音、アクセント、イントネーション、プロミネンスなどの技術は常識だと思っていた。だが、それはまちがいだった。朗読理論の基礎から立て直しをした。その先に進んで、文の組立や文学作品の構造などにも踏み込まざるを得なかった。 at 07/06 06:33
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