WATANABE_tomo / 渡辺知明
朗読の声が世界を現実化するとき、それは表現よみといえる。音声訳では声は文字の代理である。ナレーションでは声は画像の添え物である。アナウンスの声は情報の伝達のための手段だ。ところが、発話者が「青い空」と口にしたとたんに、聴き手の目の前にそのものの幻想的な世界が創造されてしまうのだ。 at 07/03 19:51
朗読の声が世界を現実化するとき、それは表現よみといえる。音声訳では声は文字の代理である。ナレーションでは声は画像の添え物である。アナウンスの声は情報の伝達のための手段だ。ところが、発話者が「青い空」と口にしたとたんに、聴き手の目の前にそのものの幻想的な世界が創造されてしまうのだ。 at 07/03 19:51
WATANABE_tomo / 渡辺知明
野口三千三『からだに貞く』を読んでいると、メルロ=ポンティが哲学として語ろうとしたことをからだを使って実践的に追求していたのだという思いがわいてくる。とくに、からだの動きそのものがモノ・コトを知ることだという点は、パロールとしての朗読の行為が作品理解そのものであることに通じる。 at 07/03 00:14
野口三千三『からだに貞く』を読んでいると、メルロ=ポンティが哲学として語ろうとしたことをからだを使って実践的に追求していたのだという思いがわいてくる。とくに、からだの動きそのものがモノ・コトを知ることだという点は、パロールとしての朗読の行為が作品理解そのものであることに通じる。 at 07/03 00:14