わたしが危惧するのは、文学作品を声に出してよむという文化をすすめるうえでの障害である。文芸作品の著作権は、現在、著者の没後、50年とされている。それで、青空文庫でも著作権の切れた作品を自由にダウンロードとしてよめるし、わたしたちも声に出してよんだ作品を自由にネットに公開している。もしも70年になると、わたしの好きな太宰治も、中島敦も、坂口安吾も、自由にならなくなる。
著作権とは、そもそも、創造者が次の創作をする励ましとなるために、その知的権利を保障しようというものである。当人が亡くなってから、50年というのも、わたしは長いと思っている。作品発表から20年くらいでもいいと思う。それが70年となると、これは一体だれのための著作権保護だろうか。創造者の遺族のための遺産のようなものか? そうではない。著作権にからむ営利目的の産業のためだ。それはあらゆる文化を金に代えてもうけようという意図がありありである。決して、文化の発展のためではない。
新聞の記事でとくに気になるのは、文芸家協会副理事長・三田誠広の発言である。欧米と比較して「われわれだけが二十年分の権利を剥奪されている」と書かれている。この人はいったいいつまで過去の権利で暮らそうというのか。死んでからさらに二十年の権利がほしいというのか。
また、こんな発言もある。音楽出版社協会の代表だ。「海外の会議では、日本はいつ七十年にするのか、とつるしあげられる」。強硬突破主義の政治家は、日本の独自性を主張したが、文化の守り手を自称する人たちは、外国を自分たちの経済的な利益獲得の口実にするようだ。そして、日本の文化を破壊する。著作権の70年への延長で、いったいダレが儲かるのか、考えればよく分かる。(参考=シリーズ朗読の著作権)
要は作者なり遺族なりが「わたしの作品はフリーにします」と公言すれば。たとえ著作権保護が永遠に続こうと問題ないわけです。
そうされてはまずいとお思いになる大人の方たちがいらっしゃるということなんでしょうか。
河相 雅史と申します。お世話になります。
で「竹田の子守唄」のことを紹介したところ知人からJASDACに確認が必要ではとの指摘をうけました。この歌は「京都府民謡」となっており、著作権の支払い先が無いのに必要があるのかと思って見積をとったら10500円/年ということになって驚きました。海外のみならず国内でもこの問題があるのに驚きです。
(本件は同じ曲を複数の人がレコード化しておりそちらでは権利放棄となっているので解消はしました)