これは次のように結論づけられている。102ページ
「すべての作品は、ただ一種類の芸術のなかにその本質的な存在を保っている。さまざまな芸術によって組み立てられた作品は、ただ結合されたのではなく、そのうちの一つを除いて、他はすべてもとの姿ではなくなる。」
具体的にはいろいろな例があるが、朗読と音楽との関係では、詩と音楽との関係が近いだろう。101ページ
「すぐれた詩を巧みに作曲した場合を考えてみよう。その結果はすぐれた歌曲である。」
「詩的創作は、歌のなかでは間接的な価値をもち、作曲家の想像力をかき立てて、彼に歌を作曲させるにすぎない。その後、芸術作品としての詩は霧散する。言葉も、音も、意味も一様に、またその句法も、そのイメージも、すべて音楽の材料となる。詩の原文は、巧みに作られた歌曲のなかにすっかり吸収されてしまう。それは、詩に用いた言葉に価値がないとか、それ以外の言葉で間に合うという意味ではなく、言葉が音楽的に利用され、それが新しい構成のなかにはいりこんだこと、そして、詩としての詩が歌のなかでは消滅したことを意味している。」
詩と音楽とでは音楽の勝ちになるが、舞踏と音楽とでは音楽は負けて舞踏の勝ちになる。また、オペラとは、音楽と演劇との勝負であるが、これは演劇の勝ちになる。
さまざまなジャンルのなかでは演劇がいちばん強そうである。次のように書かれている。103ページ
「演劇は、舞台のなかにはいり込んでくるすべての造形的創作を吸収し、また、これら造形的創作自体の絵画的、建築的、または、彫刻的な美が、演劇自体の美に貢献するのではない。」
このあとで、ミロのヴィーナスを例にして、こんなおもしろいたとえを書いている。
「偉大な彫刻品、たとえば、ルーブル美術館にあるミロのヴィーナスを、喜劇、または悲劇の舞台に移しても、それは所作の一要素である舞台装置しての価値しかなく、その目的には、ボール紙で作った代用品ほどの価値さえない場合もあろう。」
以上が芸術ジャンルにおける「同化の原理」――いわばジャンル同士の食い合いの原理である。朗読と音楽の関係も、こうして考えると芸術論の根本的な課題に通じる深いものがある。
もしも朗読に音楽を取り入れるとしたなら、よみと音楽とに守るべき原則が必要だろう。第1に、よみについては、作品の表現を積極的に打ち出すこと――朗読でなく表現よみである。第2は、音楽については、作品の意味を食うことを前提にした切りはなしをすること、この二つだろう。